2006年03月08日

200回を迎えて

これで200回。98年4月に書きはじめて、100回にとどくのは早かった。それから200回へはピッチが落ちた。アップロード環境が、たびたび変わることに影響され、ついに昨年は半年間の休載となった。
ひとが見てくれるかどうかに関係なく、自分が読むために書いているようなものだ。
本来の目的である、大学での授業の補助とする、という効果はあらわれている。何かが金融・資本市場で起こった時、自分が2―3年前に書いたことが、そっくりここで役立つことが時々ある。見てくれている人も少なくないようだ。だから、これからも続けます。

200という数字は100と違って、あまり意味はないようだ。歴史のみじかい米国は1976年に、建国200年を盛大に祝った。もっとも Bicentenaryという単語があるのだから、200年というのは意義がある数字かもしれない。米国は200年をすぎてから落ち目になった。三つの赤字が拡大し、70年代末期から90年代はじめまでは最悪だった。国家にもライフサイクルがあり、200年は一つの寿命かも知れない。

わが国では、ペリーの来航は150年前だが、200年前の1803年7月に米国の船が長崎にきて貿易を要求、幕府はこれを拒絶した。あの伊能忠敬が、測量にあるいていたころである。翌年の1804年9月、ロシアも長崎に漂流民を護送し、貿易を求めてきた。幕府は1805年3月になって、ようやく拒絶を回答し、ロシア船は長崎を去った。ペリー来航の50年前、いまから200年前に開国の要求があったのだ。それは江戸に幕府がひらかれて200年目の年だった。それからの年月は、落ち目の幕府による空白の50年であり、だからペリーによる武力をかざした開国要求は、だしぬけのショックとなったのだ。
日本の歴史としても、開国の予兆があった200年前を再認識しておきたい。

金融の世界で200といえば、200円札をわすれられない。昭和2年(1927年)、高橋是清は74才の病躯ながら金融危機の解決のため、大蔵大臣を引き受ける。就任の翌4月21日、全国の銀行に預金者が殺到し、日銀は非常貸出しをつづける。高橋是清の随想録によると、「日銀の貸出金は平常ニ億五千万円前後、多いときでも四億七―八千億円を超えない。それが21日の新規貸出しは六億円を突破した。」「日銀の兌換券の発行も平常は十億円内外だが、21日だけで六億三千万円が新規に発行された」「日銀では兌換券が不足となり、金庫の中に仕舞いこんであった破損札まで市中に出したが、それでもなお足らぬので、にわかに五円、十円札と二百円札を急増することになった。」日銀の「貨幣の玉手箱」51話にも記述がある。

二百円札は21日に使ったわけではない。是清は22日、23日の銀行一斉休業を実現し、24日は日曜だが日銀は銀行へ非常貸出を続けた。25日に預金者がおしよせるときの見せ金として、二百円札も用意したのだ。印刷が間に合わないにで、二百円札は裏が白紙だった。この札はどうなったか。

インターネットは便利だ。AOLサーチに「二百円札」をキーワードとして打つと、7800が表示される。
私の茶話、第144回、「危機を防いだ老人」もここに出てくる。
そこで知ったが、二百円札の発行は昭和2年4月25日、昭和2年5月12日、そして昭和17年1月6日であった。

「あいこいんずニュース」というのをみると、ほかに二百円札のその後がわかる。
「裏の白い「裏白二百円札」は、4月25日に511万枚、印刷された。」4月25日に見せ金として、取り付けにきた預金者の前に積上げられた。取り付けはおさまった。是清は、21日間のモラトリアム(1件500万円以上の債務の3週間の決済猶予)を実施した。それが終わったのが、5月12日だ。二百円札の2回目の発行日は、この日だ。750万枚が印刷されたという。それは裏が赤だったから裏赤という。是清の回顧によれば、そのときは何事もなく、二百円札は使うに至らず、6月2日に是清は約束どおり、大蔵大臣を辞任する。

だれもが知っているように、1936年の今日、是清は殺された。

いままで知らなかったが、二百円札はほかでも発行されていた。昭和17年1月6日に作成されていた二百円札が、終戦の翌日、昭和20年8月16日に発行されたそうだ。終戦により、多大な紙幣が必要となり、印刷局はすぐに対応できないので、つかわれたという。昭和21年3月で、この通用はおわったが、、裏赤二百円札、藤原ものとして珍重されているという。

二百円札は2回とも、非常時の切り札として、流通することなく市場から消えた。そのことを記憶しておく意義はある。3回目の二百円札は出るだろうか。前2回にくらべて物価水準はあがってしまった。デノミでもしなければ、二百円札は無意味である。

ただ、あの2回の二百円札発行の背景や精神は忘れたくない。
非常時への即時対応、緊急事態への事前の対応を、先人からは学ぶことができる。
  

Posted by kinnyuuronnsawa at 19:13

シテイコープの対応

92年1月、シテイコープは 91年度決算を発表した。純利益は4億5700万ドルの赤字だった。
アニュアルレポートの冒頭で、ジョン・リード会長は株主に語っている。「赤字となり、普通株の配当を見送った。株価はロングタイム、ロー(8ドルまで下落)となった。申し訳ない」
そこで、「五ポイントプラン」を発表した。事業の見直し、リストラなどなど、五項目の再建計画である。
他の会社とちがうのは、五項目とも3年間という計画の達成期限がしめされ、各プランの最高責任者が顔写真入りで明記されていたことだ。

これに先だってジョン・リードは資金調達に奔走していた。優先株などの新株発行で20億ドルをあつめたのである。みずほ、UFJなど日本の銀行との違いは自己資本強化のタイミングである。

2003年2月14日に、新生銀行の取締役会のため来日中のジョン・リードを朝日新聞が取材している。
(15日、朝日、朝刊13面)。彼はまだ64才だがシテイグループを退いた。
「バブル崩壊後、(日本の)銀行が不良債権の実態を認識するのに時間がかかり、対応が非常に遅かった。政府も甘かった。経営難に陥った90年のシテイと同じだ。我々は不良債権の深刻さを認識してすぐ資本調達を表明した。その2ヶ月後には当初の倍以上の損失が生まれるという実態を把握した。邦銀はこれに5年かけた。」

増資はどのように行なわれたか。「苦しい状況で高金利になるのは仕方がない。シテイも市場金利が6%の時代に11%でサウジアラビア王子から調達した。」
「我々は数千の借り手企業の個々の収支などの数字から、事業の潜在力まで把握していた。私は直接、借り手企業の役員会に乗りこんで「倒産するかリストラかどちらかだ」と迫った」「(わたしが)いま邦銀トップなら徹底的に不良債権を処理し、毎朝2時間は借り手企業の実態を個別にチェックして、事業改革への圧力をかける。」

この再建計画は95年度までに達成された。利益は92年度の7億2200万ドルから黒字化していたが、95年度は34億6400万ドルをあげ、株価は70ドルへと回復していた。
ジョン・リードは緊急対策が完了した95年に、総額45億ドルの株式買戻しプログラムを発表すると同時に、あらたな経営方針をたて96、97、98年を改革と実行の年と表明した。
それが完了する98年に世界の金融界が驚愕する。シテイコープはトラベラーズグループと合併したのである。

いまから省りみると、当事のシテイの不良債権規模は、邦銀のそれにくらべて小さい。

            シテイ 1991年末                 みずほ 2002年度末

総資産    2169億ドル(1ドル120円として26兆0280億円)       151兆3124円
貸出金    1509億ドル(18兆1080億円)                  84兆5936円
貸倒引当金  33億ドル(3954億円)                     1兆9498円
引当比率    2.19%                                2.30%

当時、シテイの不動産向け貸出は130億ドルあり、うち44億ドルが延滞債権化していたという。
みずほの場合は、直接償却をすすめてきても、2002年度末、まだ5兆4672億円のリスク管理債権がある。
貸倒引当金はこれに対して35.6%に過ぎない。

米国の不良債権処理にグリーンスパンの貢献は大きい。景気回復後も低金利政策を維持し、銀行は債券の好収益と、貸出し利ざやの拡大により、業務純益を積み上げて行った。

いろいろな不運が日本にはあった。しかしながら、日本との違いは、米国では、企業の自己責任、透明性、そして全ての原点に株式がある、ということではなかろうか。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:12

Transparency

1990年9月、IMF・世界銀行の年次総会がひらかれていた。当時わたしは米国野村総研の会長であったが、ある会合にでてみないかと米国の知人に誘われて、ワシントンへ出かけた。総会はお祭りであり、世界の金融界から大勢やってくる。有名ホテルの部屋を借りて、会社ごとにレセプションをやる。いくつかの会場をおとずれて各社の幹部と握手して回るのが、総会の主な行事であることも行って見て分かった。そのころはまだ日本の銀行、証券など元気がよくて、各社のトップをはじめ大デレゲーションがきていた。

その会合は、当時の米国の銀行の不良債権をめぐる討論だった。パネラーには、前FRB議長ポール・ボルカー、NY連銀総裁ジェラルド・コリガン、欧州中銀総裁ジャック・アタリ、FDIC長官ウイリアム・シードマンなど数名の超大物がいた。アラン・グリーンスパンがいたかどうか記憶がない。そのころ彼は有名でなかったから私の意識になかった。聴衆は30名ほどで、すこしずつ入れ替わっていた。日本の大銀行の頭取、証券会社の社長、元大蔵省の高官もあらわれたが、いずれも5分も聞かずに出ていってしまった。
わたしは驚いた。討論の内容にである。不良債権はどれだけあるか、ペイオフをすべきかどうか、預金保険機構をどうするか、破綻銀行の経営責任はどうか、などの議論を数字をあげながら、活発にやっていたのである。しかもパネラーたちは評論家ではない、米国の金融行政に責任あるいは影響力のある人物ばかりである。ここまで、オープンにしていいのだろうかと、いうのが私のオドロキであった。

これが民主主義なのだ、TRANSPARENCY(透明性)とはこういうことなのだと、ストンと合点した。

おりから湾岸戦争がはじまっていた。8月2日にイラクがクエイトに侵攻、9月4日にジョージ・ブッシュ大統領がテレビで名演説をおこない、米国民が結束した。その後、新聞もテレビも、いつどのような方法で空爆をすべきか、地上戦はどうするかの討論をやっていた。日本でやっていたのとは違って、これも政府、議会、軍の首脳がでてきて討論している。戦争だから秘密にすべきだと私は思ったが、これが情報化時代の民主主義のすがたであろうと納得した。1月17日に空爆開始、2月24日に地上軍投入、3日で終了し、6月10日に戦勝パレードが行なわれた。

この間、米国の不良債権問題は急速に同時展開していたのである。

91年1月10日、ボストンにあるBank of New Enlrandが破綻した、翌日わたしはボストンに行く用事があったので、そういう時の銀行の様子をみておこうと朝7時半ごろ銀行の本店前へ行った。誰もいない。マスコミや預金者が押し寄せるだろうと私は想像していた。近くに一軒、店をあけようとしていた雑貨屋があった。そこの主人らしい人にぶしつけながら聞いてみた。「この銀行がどうなったか知っていますか」「知っている」「借り入れはないが、預金はすこし有る」「預金保険で10万ドルまでは保護される」と、きわめて冷静だった。

「これに先だって1984年に、81年末、資産450億ドル、全米第6位のコンチネンタル・イリノイ銀行が破綻した。FDIC(連邦預金保険公社)は再建のために、コンチネンタルに45億ドルの資金を投入、経営陣をいれかえ90年末には、資産270億ドル、全米第27位まで回復し、株式は再上場した。シテイコープの前副会長がこの銀行のトップになった。資産総額230億ドルのニューイングランド銀行も、FDICが77億ドルの資産を買取り同額の預金を払い戻した。残る134億ドルの資産・負債は競売に付した。この銀行につづく10数行の破綻もおなじ方法で処理された。」
    以上は「カムバック」ロイ・スミス著、蝋山昌一監訳、1994年 プレジデント社による。

当時の米国は10年前の経験があり、日頃からオープンな議論をくりかえしていたから、いざとなって混乱せず、冷静に銀行危機に対応できたのである。政府は方針をきめている、経営者、株主は責任をとる、預金者は保護される、そのことを関係者が周知している。わが国は、そのことから何も学んでいない。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:11

丸ビルに来る人達

東京駅北口の正面にある通称丸ビル、もちろんビルのかたちが丸いからではなく、丸の内のシンボルだった。
そういえば大阪はおもしろいところで、ビルの形が丸い、文字どうりの丸ビルが昔はあった。
となりの新丸の内ビルよりは風格があり、かつては日本を代表する製造業の本社や東京支社が入っていた。
昨年秋、もとの丸ビルは完全にこわされ、おなじ敷地に新築された。こんどは36階の高層ビルだ。

リニューアル後、わたしが行ったのは。2月10日が2回目だ。昨年秋のオープン以後、もう1000万人以上がきたという。最初に行った昨年は、あまりにも多い人ごみに辟易して、すぐに退散した。そのとき、このビルに入っているレストラン、飲食店のたぐいが72店もあり、1階から5階まではオフイスでなく、フアッション、ジュエリーなどの高級専門店であることを観察した。まさに、このビルというより、集まってくる人々がみものである。圧倒的に女性がおおく、しかも若い人が多い。地下の明治屋で高級ワインを慣れた顔つきで試飲しているOLらしき二人づれがいる。
パリの高級ホテルの1階にあるような、カバンや洋服などブランド品をながめているのは、ひとり歩きが多い。100円ショップが盛況だが、こういう店もまだ成り立つのかと関心した。
8階から上のオフイスフロアーに、かつてのテナントであった日本の製造業の名門はいない。多くはカタカナか英語名の事務所であり、驚いたことにハーバードなど三つの大学がここに入居している。
1階の東京駅にむかうメインの入口で目に付くのは、ブルンバーグのデイスプレイだ。
今頃これに腹をたてていては、60年代からソニーがニューヨークのタイムススクエアーの一番いい位置の広告を奪ったことを、わすれていることになる。
2月10日、行ったのは平日の4時半ごろだった。

1階のアイスクリーム屋の前は行列ができている。この時間、ふつうは働いているから来ている若い人たちは、休暇をとっているのかなと、余計なことを思いながら、35ー36回へあがってみた。一方面は大きなガラス窓で、展望台である。そこで大勢がたむろしている。東京での最初の超高層ビルは霞ヶ関ビルで、36階の展望台は500円の料金をとっても満員の盛況だった。ここの35,6階は超高級レストランがはいっており、1人2万円ぐらいのメニューだ。100円のさぬきうどんや250円の牛どんが売れる一方、こういうところにも人はくる。

わたしが入ったのは、6―7階の中級レストランのなかの寿司屋だ。5時だというのにカウンターもテーブルも満席で20人ぐらいの客がいた。男子はわたしを含めて4―5人だけだ。おどろいたのは板前が10人もいる、ウエイトレスが10人以上いる。あわせて見えているだけでも、客の数とおなじぐらいいる。わたしが払ったのは数千円だが、このビルの家賃を払って、これだけの人をつかって採算がとれるのだろうかと考えた。

日本のサービス業は多様である。フアーストフーズや100円ショップだけが潮流ではない。

かつての製造業のメッカ、丸ビルでおもったのはそういうことである。

製造業はどこへいった。昨年12月、高知へ行った。松下電産グループは四国に八工場をもっていたが、いまは宇和島だけがのこっていると、現地で聞いた。

東京はこうして繁栄しているが、四国、九州など地方の製造業の空洞化は激しい。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:10

利払いは激増する

前回の195で、2016年度に「国債発行残高が900兆円を超える」という財務省の試算を紹介したが、じつに多くの仮定を置いた計算である。なにより、歳出、歳入とも、なにも改善しようとせず現状の構造のまま放置すればこうなるということだ。2016年度など遠いさきのことと思うかもしれ内ないが、たった13年後である。
いまから13年前、バブルがはじけた。それ以来、日本は、なにも解決しないうちに13年がすぎてしまった。

このような試算を発表するのはよいことである。わかりやすい警告である。
いまの予算委員会でこれを大きくとりあげたという話を聞かない。新聞も2月6日にかんたんに報道しただけでフローアップはない。そこで私が国債残高の増加についてコメントしよう。

2002年度の国債の利払費は約9.6兆円(当初予算ベース)だ。414兆円の期末残高にたいして、平均利子負担率は2.31%だ。ほんとうは期末残でなく、正確な平均残高で計算しなければいけないが、資料がないから、前年度末と当年度末の残高を足して2で割った平均残高をつかうと、利子負担率は2.37%である。低金利の恩恵をうけて利子負担率は低い。年間の利払費がいちばん多かったのは、1991年の約11兆円であった。おなじような計算で、その年の利子負担率は6.50%であった。
低金利は債務者にメリットがあり、わが国最大の債務者の低金利メリットは大きい。かりに利子負担率が1991年度とおなじ6.50%であるとしよう。
国債残高400兆円にかければ26兆円となり、それだけで我が国の税収額の半分をこえてしまう。

いまのような低金利がつづけば、政府の利子負担率はひきつづき下がって行く。
たとえば、今2003年度は当初予算で36.4兆円の新規国債発行がある。今の金利がつづけば10年債で 1%だから、36.4兆円でも年間利払費は、多くても3640億円だ。わずかジャンボジェット機、1.4機分である。
新規発行のほかに借替債がある。今2003年度に83.5兆円の国債償還期限がくるが償還するカネはないので、そのほとんどの金額の借換債を発行する。償還される国債の平均利子負担率はわからないが、いずれにしても現在の発行よりは低い。借換債をぜんぶ10年ものにできれば、ずいぶん金利負担の軽減ができる。

国債の償還金額は2005年度から、100兆円を超えてくる。だから金利の動向は政府にとって重要である。

ところで、これからが本論である。
国債発行残高がふえる。5年後、600兆円、10年後、800兆円の可能性は、わたしも視野に入れている。財務省試算の13年後、900兆円突破も、シュミレーションとしては成り立つ。

そこで重要なのは、金利水準と国債の利払費負担だ。国債発行残高が600兆円とする。この数字はきわめて現実的だ。いまは、平均利子負担率が2%台と低い。
だから、約400兆円にたいする利払費は、約9.6兆円ですんでいる。平均残高が600兆円になったときの、市場金利はどうであろう。いまは皆が上げたがっている。インフレターゲット論の合唱がそれである。

かりに国債残高が600兆円とする。平均利子負担率が3%あがれば、年間の利払費は18兆円ふえる。それは一度にくるのではなく、タイムラグがあるが、算術的にはそうなる。


インフレと金利上昇は同義語である。それがあった場合、債務者にいちばん負担がきびしいということを忘れてはいけない。インフレターゲット論を唱える政治家は、なにを考えているかと、いいたいのである。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:10

国債残高900兆円

財務省はなかなか良い資料をつくっている。2002年9月に発表された「財政の現状と今後のありかた」は残念ながら、政府刊行物センターでも売っていないが、霞ヶ関へゆけば入手できるし、ホームページにでている。
10ページに「公債残高の累増」というのがある。1965年度以降の国債残高を、建設国債と赤字国債にわけてグラフでしめしたうえ、参考コメントがある。

2002年度の国債残高414兆円(当初予算ベース、補正後は428兆円)は、2002年度の一般会計税収46.8兆円の約9年分に相当。家計にたとえれば、年収の9年分の借金があるということだ。
これは国民一人あたり326万円、4人家族として所帯あたり1,303万円になる。

17ページはパンチがある。利払費と利払費率の推移を図でしめし、2002年度の利払費 約9.6兆円の大きさをコメントしている。年間9.6兆円なら、関西国際空港が6つ建設できる。一日あたりの利払費 約263億円でジャンボジェット機が買える。一時間あたりの利払費 約11億円で標準的な小学校(18クラス、土地代除く)が建つ。
財務省は、1分あたり1,830万円、1秒あたり30.5万円もくわえて、こういう広報を各省庁に配布すべきである。
何十年か前、日本の製造業の工場では、「この機械の1日あたりの金利いくら、償却費いくら」の張り紙をしていたところは少なくなかった。官と民ではコスト意識がちがう。

国債の利払費が年間約10兆円になったのは1985年だから、もう18年で200兆円ちかくの利払いをしてきたのだ。
これからは、一体どれくらい払うのだろう。

2月5日、財務省はすごい発表をした。2016年度の国債発行残高が900兆円を超えるという試算だ。

「国債整理基金の資金繰り状況等についての仮定計算」という資料を財務省はつくっている。
これはホームページにでているが、私もそれにたどりつくには随分回り道をしたものだ。
昨年の2月に2015年度までの資産を発表していた。今回はそれを1年延長して2016年度までとしただけだ。

今年の分はまだ新聞報道のみで、詳細がわからないので、昨年分を例に試算のやりかたを説明する。

まず,財務省は「財政の中期展望」という資料をつくっている。その部分は「財政の現状と今後のありかた」には、21―22ページに「平成14年度予算の後年度歳出・歳入への影響試算」というタイトルででている。

昨年の場合なら、2005年度までの、実質経済成長率、名目経済成長率、消費者物価上昇率を仮定する。弾性値(1.1)を仮定して税収を試算する。2002年度予算における制度、施策を前提として一般歳出を試算する。地方交付税等を仮定をおいて算出する。歳入の不足はすべて国債発行で埋めるとする。既発国債の償還年限にもとづき、償還と借換債発行を決める。金利を仮り置き(10年国債、2.0%)国債費を算出する。

さて次が大切なことである。3年分はこうして試算するが、それ以降は2005年度の国債発行額とおなじだとして、国債発行残高を試算したのである。

2月6日発表されたのは、2006年度の国債発行額が2007年度以降もつづいたとすると、2016年度の国債発行残高は、経済見通しによりわけたケース(1)では899兆円、ケース(2)では929兆円に達するというわけだ。

試算というものは一人歩きをするものだから、財務省にかわって試算のやりかたを解説した次第である。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:09

不祥事どこ吹く風

シテイグループは、従業員25万人、世界100ヶ国以上に、2億口座をもつ巨大金融機関である。

保険会社のトラベラーズ、商業銀行のシテイバンク、証券会社のスミスバーニー、ソロモンブラザーズなどが、1998年に合併して出来た会社だ。会長・CEOはトラベラーズを率いてきたサンフオード・ワイル。シテイバンクの中興の祖であったジョン・リードは、合併後、共同会長をつとめていたが今は去った。クリントン時代の財務長官のロバート・ルービンが要職についている。
1月21日に発表された、2002年度第四半期および通期の業績は、8ページにわたってホームページに出ている。

純利益152.8億ドルおよび1株あたり利益は前年比8%増。世界経済の停滞、先進各国での未曾有の倒産ラッシュ、多くの国での政治不安のたかまり、ビジネス慣行にたいする監視の強化、といった環境での利益新記録だ。
当社もエンロン事件やアナリスト不祥事などで、訴訟や和解費用が発生し13億ドルを支払った。円換算で1ドル120円として1560億円である。不良債権への引当は15.3億ドルふえて期末116.7億ドル、不良債権の発生率は個人部門は改善したが、法人部門は悪化した。このような状況をものともせずの順調な業績である。
ほかの米国の大金融機関が、業績の悪化でリストラを余儀なくされているのをみると、シテイグループの強さが歴然としている.不祥事、スキャンダルの打撃をみごとにはねかえしている。

自己資本利益率(ROE)は11.7%、もちろんBIS規制の自己資本比率は悠々とクリアーし、社債の高い格付けを維持し、この期も1億5100万株の自社株買戻しをおこなった。
152.8億ドルの利益はどこで生まれたか、その55%はカード、消費者金融、Retail Banking など、個人取引部門であり、これぞジョン・リードが育てたシテイバンクのビジネスだ。地域別には、利益の63%が北米だが、日本を除くアジアが10%、日本が8%と、メキシコの9%、西ヨーロッパの8%にくらべて、アジア地域の利益貢献がめだつ。

銀行、保険、証券の合併により、はたして効果がでるのか、わたしは懸念していた。巨大になりすぎた、金融の異業種統合はシナジーがでるのかと、疑問をもっていた。今回の決算でみれば、シナジーがあらわれているかどうかは不明だが、多角化とグローバル化のメリットはでている。すなわち、ほかが少々悪くても、個人取引部門と、アジア地域の伸びで充分とりかえしたのである。

みずほグループとは対照的である。一つはみずほグループは個人取引部門が弱い。
二つはみずほグループは海外部門を縮小して国内に閉塞している。

それ以上に大きなちがいは、資金調達のタイミングである。
みずほグループは1月21日に、1兆円の増資を発表した。数年間にわたる不良債権処理で体力がおとろえ、政府の圧力、企業存亡にたいするマーケットの懸念があった。そのあとでの優先株発行である。

シテイバンクは1990年、不良債権の増大に悩んだ。
そのときジョン・リードがやったことは、いちばんはじめに不良債権を処理して、赤字決算にしたと同時に、大量の優先株を発行して、自己資本を充実させたことである。当時はニューヨークで働いていたので、よくおぼえているが、それは1991年のいまごろの季節だった。

1月22日の新聞、日米二つの巨人の同ページでの大見出し扱い。それは面白かった。
そのうえで、わたしが言いたいのは、あまりにも違いすぎるということだ。
おなじ数字の利益と赤字の額はどうでもよい。やっていることの違いである。

それは、資金調達の時期と動機と方法である
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:09

かくも大きな違い

 1月22日の新聞を、ながく保存しておきたい。とりわけ日本経済新聞の朝刊は整理部のヒットである。
一面のトップは5段抜きの大見出しで「みずほ最終赤字2兆円」とあり、そのすぐ下に3段ぬきで「純利益1兆8000億円」の見出しと、「シテイ、2002年米企業トップ」 の小見出しがつづく。

みずほフイナンシアルグループ(以下みずほ)は、日本企業としては過去最大の1兆9500億円の最終赤字を今3月期に計上する。シテイグループは前12月期決算で、2002年度の米企業で最大の黒字を発表した。それだけでも、整理部は張りきるだろうが、シテイグループの中核であるシテイバンクとジョン・リードの90年代を思い出せば、この対比の意味がいちだんと大きくなってくる。それを何回かにわけて書くつもりだ。

まず、みずほのことを記録しておきたい。記事によると、今年度の業務純益は約8000億円だが、株式の売却損が約4000億円、不良債権処理損失が約2兆円に達するので、最終利益は約2兆円の赤字となる。その結果、自己資本が2兆円も減少するので、BIS規制の自己資本利益率8%を維持するために、1兆円の増資をおこなう。増資は国内外の取引き先や、機関投資家、金融機関に優先株を引き受けてもらう。この増資と今後の5兆円の資産圧縮により、自己資本比率は現在の10%から9%への低下にとどまる。

じつは、この発表にいたるまでに毎度のような茶番劇があった。1月21日のみずほのホームページにつぎのような発表があった。気の毒だが全文を掲載する。

            当グループに関する報道について
「本日の各種報道において、当グループに関する「今期業績」及び「増資」に係る報道がなされておりますが、今期業績に関しては、現在見直しを進めており、業績修正の必要が生じた場合には本日にもお知らせいたします。
増資に関しても、年度内に実施する方向で検討中で、具体的には今後詰めていく予定で平り、成定年月お知らせいたします。  日各。」 わけのわからない文字があるがこれは私のミスではない。「具体的には今後詰めていく予定で平り、成定年月お知らせいたします。  日各」 と画面にでていたのだ。

いつものように、情報がもれたのだろう。だからこのような発表をして、悪い憶測を封じようとしたのだろう。会社の狼狽ぶりを、単純なミスタイプが遺憾なくあらわしている。
「本日にもお知らせいたします」と言ったとおり、おなじ21日のホームページに、「平成15年3月期の業績予想の修正並びに資本準備金の減少について」という発表があった。そこで前記のように当期純利益を当初予想2200億円の赤字から1兆9500億円の赤字へと修正したのである。
さらに2月5日に臨時株主総会を開き、資本準備金3,248,642百万円を「その他資本剰余金」に組みいれることが発表された。増資については、ひとこともない。

一方、シテイグループは、クレジットカード業務など個人取引き部門の好調で、純利益が152億7600万ドル(約1兆8000億円)と、前年比8.1%増加した。不良債権の最終処理は90億ドルと前年比28%増(?)、アナリスト不祥事の和解費用13億ドルなどが発生したが、それをはねかえして2002年度、米国企業最大の利益をあげることができた。、

これだけでも、日米ふたつの金融ジャイアンツのちがいは大きいが、それは表面的な些事にすぎない。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:08

歴史を伝える方法

ユーゴスラビアへ行ったことを思い出した。ロシア東欧貿易会の調査団で、金森久雄先生、竹中一雄先生や昨年なくなられた小川和男さんなど、小人数の一行だった。戦いが終わったボスニアへも行った。そのときは、はげしい殺戮がおわったあとの、つかのまの平和な時期であった。首都ベオグラードで、中央銀行のトップが激昂しながら経済制裁の痛みを語るのも聞いた。それは、その何年かあとに起こったコソボへの爆撃の前だった。ベオグラードもそののち壊滅した。だから私の記憶は、まだ美しかった古都のたたずまいである。
「武器博物館」というチトー時代の遺物に感銘した。数千年前から、それぞれの時代のユーゴスラビアをめぐる戦争の歴史が克明に開示されてある。ひとつの主張をもった国の歴史だ。それは多くは負け戦であり、屈辱の歴史だ。米国のワシントンやウエストポイントはもちろん、どの国にもある展示だが、ベオグラードのそれは圧巻であった。20世紀後半に成功した統一への賛歌がながれていた。それでも、そのときは、チトーの公邸も近くにあったが既に荒れ果てていた。
人の一生は短く、一国の歴史はながい。


1月24日、田舎からきた弟を案内して東京見物として、二万歩ちかく歩いた。まず家から遠くない谷津干潟へ行く。風はつよく満潮らしくて、鳥たちはすくない。それだけに干潟の別な顔がわかった。これだけ見事に自然が保護されている例は日本にはすくない。

そのあと両国の江戸東京博物館へ行った。となりの国技館は貴乃花が引退発表をしたので、当日券をまだ売っていた。「大江戸八百八町展」は満員だ。ほとんど半額の450円で入場のシニアで、圧倒的に女性が多い。これは見事な展示である。よくぞこれだけ集め、これだけ克明にしらべたものだと感嘆した。歴史を伝える方法はこういうことであある.今年は江戸開府400年だからおおがかりにやっているのだろうが、ビデオや出版物にのこしていつも見たい気がする。停滞していたとおもわれている、江戸時代の首都はじつは活き活きとした、世界にほこる文化都市であったことがわかる。ペリー来航後の変革も、こうした土壌があればこそできたのだ。
圧巻は「煕代勝覧」という絵巻物だ。今川橋から日本橋あたりまでの大通りを、約1700人の人々を克明にえがいている。これはベルリン東洋美術館の所蔵で、日本初公開とのことだ。あらゆる職業のひとがいる、あらゆる身分階層のひとがいる。その表情が蕪村の俳画に登場する人物のように、どことなくのどかである。現代のわれわれのように、ギスギスと不安げではない。あれは高山寺の鳥獣戯画のように、ぜんぶを巻物にした複製がほしい。ひさしぶりに、もういちど来てみたい展覧会だった。

そのあと靖国神社へ行った。いまごろは閑散としている。遊就舘があたらしくなっていたので入って見た。入館していたのは10名ぐらい、その半分が外国人だ。両国とは対照的だ。展示の内容が以前とはかわっていた。ペリー来航150年だからか、幕末のころの欧米列強のアジア進出の様子が大きな地図でえがかれている。それが最初で、日清、日露以来の戦争の歴史をかたりながら、この展示には主張が読み取れる。わがくにが戦争をしてきたのはペリー以来、外国の脅威があり、やむなくたたかってきたのだという主張である。すくなくとも、ここへきた外国人はそうおもうだろう。これはどこの国でもそうだ。ユーゴの博物館もどれだけが史実でどれだけが、自国のために史実を曲げたものかはさだかでない。戦争とはそういうもので靖国神社は歴史を正確に保存するところではない。

それにしても、展示の最後に、戦いでなくなった人たちの数百枚の写真、みなキリッとしたいい顔をしている。あのころは、だれもが真剣であったことを実感して、最後はおもい一日となった。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:07

日足を楽しむ日々

株価でも為替相場でも、罫線というものがある。
毎日の相場を記録してグラフにするのが「日足」である。
ほかに「週足」「月足」「年足」などがある。
このごろ注目しているのは、米ドルとユーロの1か月ぐらい前からの「日足」である。円は、米ドルに対しても、ユーロにたいしても、ジリジリと弱くなるはずである。

ところで今朝はあたたかい。一月中旬というのに外の気温は十何度で、三月中旬なみの陽気だとテレビでは言っている。昨日は、寒かった。午後から外出したが、オーバーズボンにスキー用の派手なアノラックをきての、お出ましとなった。わかい頃は、今にくらべれば気候の変化に鈍感だった。といっても、田舎そだちだったから、大学卒業までは春夏秋冬の移り変わりには敏感だった。冬休みや春休みは毎日、竹やぶのなかで伐ったり運んだりしていた。「春よ来い、はやく来い」と歌いながらのきびしい労働ではあったが、いまごろの季節から4月のはじめまでは楽しかった。日ごとに田圃の氷がうすくなり、土手にみどりが芽生え、うぐいすが鳴く。
やがて新学期がはじまれば、とりあえず竹やぶから出て、街へでるのだ。

会社にはいってからは自然の変化に関心がうすれてしまった。年に十回ぐらいの登山とスキーぐらいで、山と接していただけだ。それでも、季節がすぎるにつれて、かならず自分の仕事もふえ、給料も上がっていった。よき時代だった。季節のうつりかわりには関心もなかった。それで済んでしまった。

いまはちがう。今日は寒い、ならば寝床にもう少し居よう、それからまた眠れるしあわせを昔はしらなかった。今日はあたたかい、ならば早く起きよう、庭にメジロなどの小鳥がくるから、ミカンを輪切りにして置いてやろう。遺愛寺の鐘を寝床のなかで聞いていた白居易の「日高ク眠リ足リテ猶ヲ起クルニモノウシ」の心境がわかる。

そこで思いだしたのは、第139回に紹介したジョージ・ギッシングの「ヘンリーライクロフトの私記」である。日記としてつずられているが、いちばん短いのが春の部の第六回目である。

「あといくたび春を迎えられることであろうか。あと十度か十二度といえばあまりいい気になりすぎているといえるかもしれない。それなら、せめてあと五、六度は春を迎えたいと思う。五,六度でも随分の長い年月だ。あと五度も六度も春がやってくるのを喜び迎え、初めて「きんぽうげ」が咲き初めてからバラが蕾をつけるまでその経過を愛情深く見守れるということが、どれほど大きな恩恵であることか!大地が再び春の装いをつける奇跡、なんとも名状できないほど目もあやな光景が、五,六度も私の眼前に繰りひろげられるとは!そのことを考えただけで、私はなんだか欲張りすぎているような感じがしてならないのだ。」 岩波文庫、ギッシング著、平井正穂訳。

こういうのを読むと日々の為替相場など、どうでもよくなってくる。米国のイラク攻撃などという「日足」に影響する要因より、財政の悪化という「年足」に影響する要因が大きくみえてきた。日本でいえば、株式の益回りが債券の利回りを上回り、「年足」では2002年を底に、陽転の可能性がたかい。


自然の変化も、経済・金融情勢の変化も、たのしいものである。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:06