2006年07月09日

327 「一般理論」の70年

327  「一般理論」の70年     06.7.4

ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」は1936年1月に英国で出版された。
早くも、1941年に塩野谷九十九先生による翻訳が東洋経済から出版された。
当時としては異例の速さだ。
京都大学名誉教授の伊東光晴先生は「現代に生きるケインズ」岩波新書、06.5で書いておられる。「中山伊知郎教授は「一般理論」をゼミで取り上げ、学生たちも執筆して「ケインズ一般理論解説」を日本評論社から出版した。翻訳はもう一つあった。大蔵省調査月報、42年3月、9月号に石原周夫、杉山知五朗氏の共訳が出ている。なぜ塩野谷訳があるのに重ねて訳が出されたかわからない」
石原周夫氏は開銀総裁になった人である。

誰が、まだ30代なかば、当時は無名の塩野谷九十九先生に翻訳を薦めたのか、きのう7月3日に伊東光晴先生に尋ねてみた。「山口茂先生ではないか」といわれた。
ウエブで調べてみた。一橋大学図書館に学長の肖像が掲げてあるという。日銀のいわゆる松の廊下にある歴代の総裁の肖像画のごとくである。
その12枚目に山口茂像があった。15枚目が中山伊知郎氏である。
伊東光晴先生によると、山口茂氏は金融論の大ボスで、小泉武、川口弘など、わたしが学生時代に読んだ金融論の泰斗たちは、みな山口茂氏の門下だったようだ。
1953年に発行された「体系金融辞典」を塩野谷先生に薦められて2000円で購入し、いまでも愛用しているが、編集委員は、高垣寅次郎(一橋)、山口茂(一橋)、田中金司(神戸)、新庄博(神戸)、高橋泰蔵(一橋)、塩野谷九十九(名古屋)、である。重要文献目録に山口茂氏の著作が16点も掲載されている。

石橋湛山日記(上下)、みすず書房、01.3。  最近、これを読んで驚嘆した。
45年元日から57年1月23日まで、克明に書かれてある。
断筆の2日後、風邪から脳梗塞を発し、2月23日に石橋内閣は総辞職した。
日記に登場する人物がすごい。
巻末に詳細な人名索引がついており、これをみているだけでも時をわすれる。

塩野谷九十九先生は、湛山の日記に12回登場する。うち2回は名古屋に於いてである。
45年6月が最初で、「塩野谷氏の論文校訂。東洋経済の発送、甚だしく遅延」とある。敗戦の直前のことだ。最後は53年7月22日、「名古屋大学、塩野谷教授と面会」、はじめて肩書きが記載されている。このあたりから石橋湛山の政治活動は多忙になってきたが、塩野谷先生の名前も日記から消える。

湛山が日記に名前を書きとめた経済学者は、高橋亀吉が22回、斉藤栄三郎が数十回だが、あとは、中山伊知郎の12回、大内兵衛3回、高田保馬3回ぐらいのものである。

塩野谷九十九先生は1930年に東京商大を卒業後、市立横浜商業専門学校の教授をされていたようだ。一般理論の翻訳は横浜時代だったろうか。
私は、1957年4月から2年間、名古屋大学経済学部の塩野谷ゼミで「一般理論」を学んだ。大学院生の飯田経夫先生が助手役であった。その前の1年間のプロゼミは水田洋先生だった。伊東光晴先生は、水田洋先生を名古屋に招いたのは塩野谷先生だと言われた。塩野谷先生はケインズのように弟子を育てるのに長けていた。けれども、不肖の弟子である私は、在学時代も卒業後も随分お話を交わしたのに、当時は問題意識が希薄であった。今なら質問したいことがヤマほどあるのにと、残念でならない。

今年は「一般理論」誕生 70年、ケインズ没後 60年である。 
塩野谷先生は、1983年、8年間の闘病生活ののち、他界された。
ケインズ生誕、100年目であった。
名古屋での告別式で、友人代表として政治家の辻寛一さんが
「薫風やしかと生き抜き給いけり」を献じた。

その年、83年10月、「雇用・利子および貨幣の一般理論」は、父に代わって一橋大学の学長やシュンペーターの研究で高名な塩野谷祐一先生によって改訳が出版された。



Posted by kinnyuuronnsawa at 19:14│金融論茶話拾遺