2006年03月08日

指数を改訂すると

1949年の5月16日に東京証券取引所で株式売買が再開された。

{「株式会社の世紀」小林和子 日本経済新聞社 95.12}によれば、上場銘柄数は681だが、市場全体をあらわす株価指数はなかった。あくる日の新聞には日本郵船と日本発送電の2銘柄の株価が発表されただけだ。

そのころ日本は占領下であり、いわゆるドッジ・デフレがはじまりつつあった。

だから取引再開後、株価は年末にかけてどんどん下がって行った。

市場の全体像をはやく知りたいという、GHQの要請をうけて取引所は49年末に日々の株価平均を発表した。それは22業種、227銘柄の単純平均であった。

株式は配当権利落ち、増資権利落ちがあると株価がさがり、連続性がなくなるので修正しなければいけない。当時の株価指数はこうした修正をせずに、権利落ちや上場廃止があれば、そのたびに採用銘柄をいれかえることで対応してきた。

銘柄数は50年6月24日から225になった。その翌日の25日、朝鮮戦争がはじまった。

上場会社の3分の2が無配という惨状は、戦争特需によりたちまち改善されていった。

225銘柄の単純平均株価指数が、50年9月7日から新株権利落ちを修正したダウ・ジョーンズ式株価指数にきりかわった。このとき銘柄はおおきく入れ替わった。

それでも、はじめて連続性のある株価指数が毎日発表されるようになったため、ドッジ・デフレから朝鮮戦争特需による回復が株価上昇で実感された。この株価指数によると、49年5月16日の取引所再開時は176.2であり、50年7月6日の85.2を最安値としてスターリン暴落の前日、53年3月4日には 378.2まで上昇していた。

日本の取引所が再開された日、株価指数は176.2だった。その日のニューヨーク・ダウ工業株30種の株価指数は 175.8である。四捨五入すれば日米とも176だから比較するのに都合がよい。米国はこの10年の株価上昇は目覚しいが日本のダウ225が39000 をつけたとき、米国のダウ30は3000にもとどいていなかった。

この株価指数は、のちに日本経済新聞社がダウ・ジョーンズ社から知的所有権を買い取り、日経225としてよくつかわれている。

4月15日、この指数は225銘柄のうち30銘柄の入れ替えが発表された。入れ替えの実施は1週間のちの24日である。入れ替え発表前日をピークに、日経225は下がりぱなしで、1ヶ月たらずで17%も下落した。おりから首相の入院、政権交代があり、日本の景気判断と金融政策や米国の株価の行方が注目されていたから、大騒ぎになった。

ついに宮沢大蔵大臣までが日経225の下落は銘柄入れ替えのせいだとコメントもした。

たしかに発表から実施までながかったから、その間にインデックス・フアンドが日経225から外される銘柄を売り、採用される銘柄を買った結果、旧指数にくらべて新指数は20%ちかく低く表示されるものとしてスタートした。さいわいに今ではTOPIXという東証1部全銘柄の指標があるから、日経225が下ってもビジネスマインドの萎縮はない。

それにしても、この銘柄入れ替えの発表は、225銘柄をスタートさせた50年前が絶妙であったことを知っていたら、もっと他にやりようがあったのではなかろうかと、残念に思えてならない。


Posted by kinnyuuronnsawa at 12:19│新・金融論茶話