2020年09月30日

1198 morning inspiration 2020.9.30

1198 morning inspiration 2020.9.30

9月30日 午前5時 もう 覚めている。

昨 9月29日の夕刊、一面を開き 三つの記事に 赤マークを記す。

1 コロナ死者 世界で100万人
2 ユナイテッド航空、パイロット以外、1万2000人は削減
3 山火事 ワイン産地 (エデンの東の)ナパバレーにも火の手

これは、米国のこと
 より大きいのは、1面トップの4段抜き見出し
   「(NTT ドコモ)を完全子会社化」

ほかに 5面の十字路 「ソフトバンクGはどこへ行く」
     これは 企業の激変老化を伝える 好コラム
      バフエットの 偉大さを 思い知る  
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このうち ドコモに 最注目

 日経夕刊の記事は 
29日 朝 取締役会で決定した場合 速やかに発表するとの記事。
今日  30日 見たら 朝日 読売の夕刊も間に合っている。

次いで 本日 9月30日の 日経朝刊

1面 TOP 5段 見出し 「NTT、 分離から再結集」
                  ドコモに4.2兆円 TOB  
2面 社説 NTTはグループを再編で飛躍できるか」
    4段見出し ドコモ株主25万人 影響は
3面 5段見出し ドコモとコム統合も 
   NTT 澤田社長と、NTTドコモ吉沢社長の記者会見
9面 日本郵政 2兆9千億円 減損も ゆうちょ株下落で

17面 横4段見出し 「値下げ」対応で見切り 菅政権誕生も追い風

    昨日 今日と 旧 電々公社が スターになった。
   ーー  昨日 今日、 整理部は 多忙ーー

電々公社、国鉄から始まり 郵政まで来た、民営化の流れが
止まり、逆流を始めようとしている。


併せて 東電 東芝、関電、日産、日鉄 などの衰退  
 これらの大企業に いささか、関わってきた身として、感慨がある。

「見るべき程のことは見つ」 新中納言知盛の卿を 想う。

 

   

  

Posted by kinnyuuronnsawa at 07:21

2020年09月29日

1197 平家物語 小督の事     2020.10.5

1197  平家物語 小督の事 2020.10.5

平清盛は 娘 徳子を高倉天皇の中宮にすることができた。
安徳天皇の母 後の建礼門院である。
  のちに 安徳天皇を抱いて、壇之浦に沈んだが、助けられて、大原の里へ隠棲した。 

 八歳で即位して、安徳天皇へ譲位させられた翌年に、21歳で崩御した高倉天皇には、
「葵の前」という寵姫がいたが、徳子中宮の入内後、遠慮して里へ帰って、亡くなった。

主上を申し慰め参らせるため 「小督の殿」と申す女房を参らせらる。
主上は、小督の殿を寵愛する。  小督は禁中一の美人 琴の名手であった。

小督も、清盛の怒りを恐れて、「或る夜 内裏をば まぎれ出でて、行方も知らずぞ
失せられける」「主上 御嘆き斜めならず、御涙に沈ませおはします。」

 源弾正大弼仲国 天皇の寵臣は 天皇の命を受けて小督を探しに行く。
彼は 笛の名手 殿中にて小督の琴と 合わせたことがある。

「亀山の辺り近く、松の一群ある方に、かすかに琴ぞ聞こえける。
峰の嵐か松風か尋ねる人の琴の音か、覚束なくは思へども、駒を早めて
行くほどに、片折戸したる内に、琴をぞ弾き澄まされたる。
控えてこれを聞きければ、少しも紛うべうもなく、小督の殿の爪音なり。
楽は何ぞと聞きければ、夫を想うて恋ふとよむ想夫恋と云う楽なりけり。」
    平家物語  巻六 「小督の事」

仲国、天皇の親書を小督に渡す。
小督  「明日から 大原の奥へ引き籠るので、今夜ばかりの名残を惜しみ
つい琴を弾いてしまった。」

  以下 17行 略

仲国 その夜のうちに 御所に帰り 天皇に報告。
 すぐに また 嵯峨へ引き返し、 小督を連れて帰って、
「かすかなる所に忍ばせて、夜な夜な召され参らせける程に 姫宮御一所出で来させ給ひけり。」

「入道相国、「小督」が失せたりと云うは、跡形もなき虚事なり。いかにもして失わん
と 宣ひけるが、小督の殿を捕へつつ尼になしてぞ追っぱな たる。

歳 二十三 出家は元より望みなれども、心ならず尼になされ、濃き墨染めにやつれはて
嵯峨の奥にぞ住まれける。」

 嵐山には、渡月橋の少し上流の亀山に、小督塚がある。

芭蕉は 元禄4年の「嵯峨日記」に 残している。
  嵐山 藪の茂りや風の筋
  ほととぎす大竹藪をもる月夜

その竹藪を抜けると、まもなく、祇王寺と滝口寺が並んでいる。
小督と同じ、平家物語のヒロイン達である。

    歌書よりも 軍書よりも 哀しい処は、ここにもある。





 

  
Posted by kinnyuuronnsawa at 14:27

2020年09月28日

1196 清少納言も同感  2020.9.28

1196 清少納言も同感  2020.9.28

枕草子 126段 最終は127段 

「九月ばかり、夜一夜(よひとよ)降り明かしつる雨の、今朝は止みて、朝日いと けざやかに
さし出でたるに、前栽(せんざい)の露は こぼるばかり濡れかかりたるも、いとをかし。
透垣(すいがい)の羅紋(らんもん)、軒の上などにかいたる蜘蛛の巣のこぼれ残りたるに、
雨のかかりたるが、白き玉を つらぬきたるやうなるこそ、いみじう あはれに、をかしけれ。
すこし日たけぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに、枝うち動きて、
人も手触れぬに ふと上様(かみざま)にあがりたるも、いみじうをかし、

と言いたることどもの、人の心には、つゆ をかしからじと思ふこそ、また をかしけれ。」

   むすびは、清少納言らしい、捻くれ である。

 !!! これは 翌9月29日に 追加。
    このように、句読点は追加せずに、間合いを空けると、文章は、
    特に古文は読みやすくなる。
    これは、自分が朗読するなら、どのように間合いを取るかを
    考えてのこと。
     詩吟の稽古 9年目にして会得したことの一つである。!!!


書いているのは平安時代の御所の中だが、まるで昨日の拙宅の庭の風景である。


なお 最終 127段の和歌
  「摘めどなほ耳無草こそあわれなれ あまたし あれば 菊(きく)もありけり」
     これは、清少納言の一部の読者にたいする 憤懣 反抗 と 私は解釈している。


秋といえば、芭蕉の句、「あかあかと日はつれなくも秋の風」が好きだ。

どこで詠んだか判らないが、
  陰暦 7月17日  陽暦 8月31日 金沢から小松への途中吟 と だけ記してある。
金沢には 陰暦7月15日から 24日まで滞在した。

金沢市内の犀川のほとりに、大きな句碑が立っていた。

  この句は、秋の風より、残暑を強調したものと、私は 勝手に、解釈している。

詩吟で俳句も吟じる。
  この句の場合、「あかあかと」を2度吟じて、中7言に入るのが、ぴったり決まる。



  
Posted by kinnyuuronnsawa at 12:26

2020年09月20日

1195 もはや 秋近し 2020,9,20  

1195 もはや 秋近し 2020.9.20

9月20日 4連休の2日目。

5時半頃 起きて外を見た。
南から東へ、ゆっくりと雲が移動している。
おだやかな朝焼けだ。
やがて空全体が薄い雲で覆われる。

2Fの自分のベッドへ戻って、ガラス戸を開けて外を仰ぐ。
ここからは、南の半分だけが見える。
屋上からは、東、南、西 中天の四方が望める。

どの方角も視界の先には、高層マンションがある。
東から朝日が、すでに地平線を離れていて、まず東南、次に南のマンションに
光を浴びせ、それが南、南南西へ移動し、最後に西を照らして終わる。

そこで、空全体が白くなる。
夜が明けて、昼に移ってゆくのだ。

白くなって、近くをみると、電柱のテッペンにカラスが一羽、下を見ている。
むかし 矢作川の夕暮れのカラスは大群だったが、ここでは孤独だ。 


午后、一階のドアを開けてしばらく、外を眺めた。
気が付いたことがある。
いろいろな草木が、西に向かって頭を下げている。
公園の南側を守るカイズカイブキの枝、
わが庭にある、12本の細いユリ。

ここは、いつも強風が西から吹き付けている。
ならば 西に背を向けて、東に向かって頭を下げている筈ではないか。

「疾風知勁草」  古い言葉は、正しかったと、思い出した。
勁草は疾風に耐えた結果、生きながらえて来たのだ。
その結果、風に正対している。

やがて、朝日のあとは、どの空からも光線が消える。 6時ころか。

「白む」 好い言葉だ。

「春は あけぼの やうやう しろく なり行く、山ぎは すこし あかりて
紫だちたる雲のほそく たなびきたる」
   今朝みたのは、まさに枕草子 巻頭の光景だった。

広辞苑で引いた、 夜が白む、 白昼。

  白とは 無のことだ。
   それが、光に関しては、無限の有のことになる。

日本語では、 世界は 無が一番 明るい。
 夜は 暗い だから 黒である。

秋は、日本語の美しさを再確認できる季節である。
  

 



  
Posted by kinnyuuronnsawa at 17:15

2020年09月19日

1194 閣僚の学歴 2020,9,19

1194  閣僚の学歴  2020,9,19

菅( すが)内閣が発足した。
9月17日 日経朝刊 一面トップに、全閣僚 21名の経歴が掲載された。

ヒマに任せて、整理してみた。

東大卒は、加藤「官房」 平沢「復興」 西村「経済財政・経済再生」、
井上「万博 ・科学技術」の4名。
最後の安倍内閣では加藤、西村の2名だった。

米国大学が4名、上川、茂木、小泉、河野。

私大は、慶応3、法政 学習院、早大院、明治、日大、玉川、上智
国立大、千葉   高校卒も一名

    多彩である。

総理大臣の東大離れは、今に始まったことではない。

戦後は、片山哲、芦田均、鳩山一郎、吉田茂に次いで
岸信介、佐藤栄作、福田赳夫、中曽根康弘、宮沢喜一など、
総理大臣は、東大卒、高級官僚上がりが多かった。

田中角栄の出現あたりから、様相が替わった。


近年では、民主党の鳩山由紀夫が、最後の東大卒 首相だった。

なぜ、こうなったか、識者の意見を知りたい。


ついでに、今朝の新聞に副大臣の学歴が掲載されていた。

東大6名、東大院 1名 
 内閣府2、総務、外務、財務、農水、経産・内閣府。 

 ここでは、東大は、がんばっている。

   それ以外は分散している。

北大院1 
名大院1
阪大院1 
防大              

早大2 院1 
日大2
青学大2
学習院大 院1
白鵬大  院1
国学院大
慶大
神奈川大

  大学院卒が 7名 

明大中退、 明大高校中退、もいる。


政治家  後藤田正治 官房長官 

「陣笠というが 彼らも3万、5万の票を取って、何回か出てきている。
バカでは出来ない。」

この言葉を聞いて以来、私は、政治家を見直している。


日経の社説  9月17日
「親が国会議員でない総裁は、森喜朗氏以来20年ぶりだ。
地方議員を務め、地方政治を知る政治家は、宇野氏以来31年ぶりである。

自民党の新執行部を見ると、ニ階幹事長、佐藤総務会長、下村政調会長は
このカテゴリーに属する。現場感覚で地方創生に取り組もうとする菅首相の
意欲のあらわれである。」と している。


総理として、森氏、宇野氏を、範たるべきか、日経の社説には、大いに疑問がある。




  
Posted by kinnyuuronnsawa at 11:42

2020年09月10日

1193 卑弥呼以前の倭国 2020・9・21 

1193   卑弥呼以前の倭国   2020,9,21

「卑弥呼以前の倭国500年」 大平祐 PHP 新書 2018.5
 
著者は、和辻哲郎を引いている。
  だから 私は「風土」を、古い書棚から掘り出して めくった。
「燕」 の国については、 史記列伝を開いた。

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「まぼろしの耶馬台国」 講談社 が 出版されたのは 1967年4月である。
   著者の宮崎康平は嘆いている。
p134
「近頃、邪馬台国論について 私に話しかける人が多くなってきた。」
「まだ本論にも触れないうちに、邪馬台国は結局どこですか」と必ず問いただす。」

あれから 半世紀以上たって、「どこか」論争は、不燃焼のまま、忘れられたが、
また再燃させる本がでている。それが この本である。

「卑弥呼以前の倭国500年」大平裕 PHP新書 2018.5.

魏は 西暦220-265年の中国王朝、邪馬台国が書かれている魏志倭人伝はこの時代。
ところが、魏より先に、BC1027年−BC222年に 存在したとみられる燕の国と倭国、
および・あるいは 朝鮮に住む倭人との交流があった、という説が この本の主題である。

冒頭に、和辻哲郎を引いている。P10
「和辻哲郎が、大正9年刊行の「日本古代文化」で「後漢「25ー220」の初め、西暦57年、
倭人が洛陽の都までも出かけて行った。
それは、いきなり起こる現象ではない。それ以前に北朝鮮の漢人植民地との
間に交通が始まっていなくてはならぬ。」
「中国古代の記録、「山海経」に、「倭は燕に属す」とあるように、戦国期の燕は、
その勢力をある程度まで朝鮮南部まで及ばして、いた。」

これを受けて、植村清二は、著書「神武天皇」で述べている。P 17
「従って、もし倭人の一部が半島の南部に分布していたとすれば勿論、彼らが
日本列島のみに居住していたとしても、彼らは舟行には慣熟していて、早くから
朝鮮の沿岸との間を往来したと思われるから、間接にもせよ、先秦(戦国時代の秦)
の文化の若干はこれを、古代 日本へ伝えた可能性がある。」

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結論は 183pに 表としてまとめられる。

「西暦239年には、日本列島は、九州中西部の狗奴国を除いては
邪馬台の版図になっていたのです。」

畿内のヤマトに統合されたのは、北九州の 不弥国 伊都国 奴国 対馬、壱岐、マツロなど。

この本を批評する。

 1)  邪馬台国を 500年さかのぼった。
     外国の文献に書いてあった。 それが 見つかったから 500年さかのぼった。
     
 2) 結論として、この本に出て来るいくつかの図表は貴重である。
   とりわけ 183p 卑弥呼以前の500年年表
      縦軸に 中国 燕から魏までの各王朝、横軸に日本の地域名 肥 北九州 瀬戸 畿内。

   巻末2ページに、この拡大版、縦軸に日本の各地域、横軸に殷から魏・呉・蜀 の中国王朝。

このような 整理はみたことがない。

著者は、大平正芳記念財団の代表で、父は元首相、ご自身は古河電工の監査役だった。
この10年余の間に、7冊の古代史の書物を出したと、あとがきに記している。

そういえば、「まぼろしの耶馬台国」の著者も、私鉄 宮崎鉄道の経営者であった。


 


  
Posted by kinnyuuronnsawa at 20:18

2020年09月07日

1202 嵯峨野明月記   2020,10.15

1202  「嵯峨野明月記」     2020.10.15  


辻邦生 「嵯峨野明月記」 1971・9 新潮社  

こういう形式の本は、初めて読んだ。出版直後から、何度 讀んだか。

2部 各6節の構成。  

各人が 協同したものも  個別に残した事績も 絢爛豪華 

 主要登場人物 3名
   一の声  本阿弥光悦  書家 刀剣鑑定家
   二の声  俵屋宗達    画家 
   三の声  住倉与一   土木建設業  父は住倉了以 

第一部 1 三名の自己紹介
     2 三名の家と幼少時代
       本阿弥光悦 =刀剣鑑定、
       俵屋宗達  = 織物業 画家、
       住倉与一  = 土木建設、海運
     3 三名の出会った戦乱と女 
     4 光悦、明智光秀の出会いと別離
     5 宗達、水墨,新画風の開発
     6 与一の事業、父 住倉了以のこと

第2部 1 光秀の謀反から敗死まで
     2 朝鮮兵役
     3 光悦の妻と土岐の女
     4 嵯峨本
     5 風神雷神図
     6 与一 嵯峨野隠棲

共通の友人  尾形光琳

  スポンサー  徳川家康 鷹が峰に広大な別荘地を与えた


登場人物
   武将 足利義昭 織田信長 明智光秀 斎藤利三 今川義元 徳川家康 前田利家 
       羽柴秀吉 柴田勝家 志波左近 加藤清正 石田治部 前田利家 鳥居元忠 
   商人 茶屋四郎二郎 今井宗久 海北紹益 

   職人 与三次郎  船頭弥平次 加納光徳 
   
   達人 古田織部 千宗易 

場所  奥嵯峨野 の ほか 奈良 京都 堺

3名の暮らした 別荘地 鷹ヶ峯  嵯峨

    京都 鷹ヶ峰  大徳寺の西北 市バス 源光庵前から
     源光庵 を挟んで 常照寺 光悦寺が近い。 
  
 わが 逍遥の地、 何度 訪れただろうか。
    御所から 下賀茂神社を通って歩いたこともある。

  [光悦寺」では、光悦垣があまりにも有名だが、その左側の林に、青柏、
     背の高い幹に 何ともいえぬ青色がある。
     庭の先は、深い谷になっており、大神川(紙屋川)が流れている。

嵯峨野明月記の 特色

  戦国時代末期ーー江戸時代初期の京都の治と乱 
  豪商の家と世渡り
  芸術の創生と成長
 
      何度 読んでも 新鮮で新たな発見がある。 また行きたくなる。

書いていると、いつまでも 終わらない。
 だから、一度 やめる。





 








  
Posted by kinnyuuronnsawa at 20:34

2020年09月06日

1192 ぼくらは、みんな生きている  2020.9.6

1192  ぼくらは、みんな生きている  2020.9.6

昨夜早くから、風雨は強かった。
だが、夜が明けたら、日差しは強く、秋日和になっていた。

今朝 公園側の鎧戸、ガラス戸を開けて、驚いた。
昨日、あれだけ時間をかけて書いた蜘蛛の巣が、消えているのだ。

縦糸のうち 西側の分は、わずか5cm程の痕跡は見えるが、あとは
全ての縦糸、横糸も、存在した痕跡がない。
もちろん、2匹の蜘蛛は いない。

すごいものだ。
人間社会でも、噴火、地震、火事、水害などの被害は甚大だが、
この蜘蛛の巣のように、跡形もなく消えてしまうことはない。

昨日から九州に迫っている台風10号は、今夜、襲来すると予想されている。
NHk は、夜の通常番組をキャンセルして待機している。

あの蜘蛛は予知能力があったから、巣を放棄して 避難したのか
台風が、巣を吹き飛ばしたのか、いずれ判るだろう。


わが庭には、蜘蛛と同じような行動をしている植物がある。

南側の公園は、わが庭より1mぐらい低くなっている。
公園に向かって、庭には高さ1mほどの、金網の垣根が巡らせてある。

名前は知らないが、その垣根に,「つる薔薇」の一種が這わせてある。

「つる薔薇」は、垣根の一番上に登ったあとも、さらに延びようとする。

多くの枝は、内側に向かって 下に垂れる。

だが、そうでない奴がいる。
さらに上に伸びようとしたり、公園の方へ曲がろうとする連中である。

公園では、垣根の近くに、楓、ねずみもち、ハナミズキの樹が植えてある。

それからの行動は、蜘蛛の巣作りと同じである。

風が吹く、バラの枝が動く、たまたま公園からの枝に接触することがある。
それに、つかまって、バラの枝は伸びて行く。

今 見ると、楓との間に2本、ネズミモチと2本、ハナミズキと一本
縦のバイパスが出来ている。

もちろん、家人が、ときどき掃除や剪定するとき、バイパスは断ち切られるが
いまは まだその季節ではない。


人間だけでなく、動物も植物も自然に対して、懸命に生きている。
はからずも、昨日と今日、それを観察できた。

長く続いている禁足の収穫と、言うべきだろう。

  
Posted by kinnyuuronnsawa at 12:53

2020年09月05日

1191 蜘蛛と河童の関係 2020.9.5 

1191 蜘蛛と河童の関係  2020、9,5 

2-3日前から、私の部屋の前に、蜘蛛の糸が見えていた。

まだ、縦糸だけで、横糸も 蜘蛛の姿も見えなかった。

今朝、戸を開けたら、蜘蛛の巣は完成しており、2匹の蜘蛛がいた。
一匹は、うんと小さい。離れている。親子か、パートナーか、敵同士か、わからない。

蜘蛛の巣は どうやって作るか、推量してみた。

まず、縦糸を張る。縦糸は太くて長い。
 一本は、南の楓の枝まで、1mぐらい、
 一本は、西 下のユリの茎のあたりまで 2mぐらい。
 一本は、東 上 物干し竿の載せ台まで、2mぐらい。

どうやって張ったか。見てないので、想像だけだ。

縦糸は長い糸を出して、風に流させる、糸が目的地へ貼りついたら、
蜘蛛が行って、接続を確かめて帰ってくる。

三本の縦糸を結ぶ、これが巣の中心となる。

縦糸と縦糸の間に横糸を張る。横糸は細い、だから見えない。
やがて、半径30cmぐらいの円形が出来る。
これは 風に流させるのではなく 蜘蛛が糸の先端を持って飛び移るか
既に張った横糸を伝わって行って、隣に増設する。

驚くのは、こうした作業を短時間にやってしまうのだ、
昨日は、昼間も夜中も、強風や、驟雨が繰り返されていた。
これを 利用したのだろうか、


世界の建設業界は、蜘蛛の巣 製造法を分析して 応用しているに違いない。
それほど、合理的であり、私が業者だったら、そうする。
蜘蛛の巣式、高層・建造物・建築工法。

先覚者がいた。
芥川龍之介が短編小説 「蜘蛛の糸」を「赤い鳥」に発表したのは
大正7年4月 27才だった。

それにしても、芥川は、「蜘蛛の糸」が 極楽と地獄を結ぶほど長く、カンダダをはじめ
大勢の地獄にいる罪人たちをブラ下げ得るということを、どうやって発想したのだろうか。

芥川竜之介の「蜜柑」と「トロッコ」は中学校の国語の教科書に出ていた。
それより前に、文学全集の芥川は、あらかた読んでいた。

なぜ そこにあったのか不可解だが、「河童」は母の実家にあったのを読んだ。
小学校の4年生だった。

芥川の「河童」は1927年3月 「改造」に発表された。
この年、7月24日、田端の自宅で、芥川竜之介は自殺した。36歳だった。


私は、大学2年生の夏休み、初めて北アルプスへ行った。
「河童」の著者が河童に出会った上高地は、梓川に、橋が架かり、井上靖の「氷壁」が
朝日新聞に連載中で、登山ブームが始まっていた。

ただし 上高地の「河童橋」と言う名前は、芥川が「河童」を書く前から付けられていた。

私は、穂高には、8回 登ったが、芥川が上高地へ行ったことがあるか、無いかは、知らない。






  
Posted by kinnyuuronnsawa at 12:21

2020年09月03日

1190 陸軍墓地の管理    2020.9.3

1190  陸軍墓地の管理    2020.9.3

昨 9月2日の 日経夕刊の記事が気に懸かった。

「旧 陸軍墓地 保全に壁 戦後 75年」である。
全国40カ所以上、管理する自治体などの高齢化、
予算の制約、補修が進まぬ。

  写真は 大阪府 和泉市 信太山 忠霊塔。
    1500名の写真と骨壺が眠る。

和泉と言えば、思い浮かぶ。

陰陽師 安部清明と狐の物語、狐が書き残して、森へ去って行った和歌。
  「恋しくば、尋ねきてみよ 和泉なる
     信太の森のうらみ葛の葉」

私は、信太山へ行ったことはないが、その先、和歌山との県境、
孝子(キョウシ)という無人駅には降りたことがある。1980年頃か。
線路を越えて、山側の狭い平地に、数十の小さな石塔が並んでいる。
この近くから出征した人たちの墓標なのだ。

陸軍墓地を最初に知ったのは 国民学校 3年の三学期だ。
吉野町の学校から行進して行った。帰りは市電かな? 
名古屋 東山の丘陵 猫ガ洞に、陸軍墓地があった。
こんなに多くの人が、戦死されているのか、はじめて知った。

その少し前、学芸会でやった劇「舌きりすずめ」を持って
名古屋城、外堀内の陸軍病院へ慰問に行った。
その時以上の驚きだった。

のちに、 1990年頃、 ウランバートルと、イルクーツクの
日本兵の墓地を参拝した。ソ連・東欧専門家会議の帰りだった。
いずれも、きちんと清掃されており、新しい花も、沢山あった。
最近は判らないが、その頃は 日本人の参拝が絶えなかった。

クレムリンの近くに、モスクワを守った無名兵士の墓、記念碑がある。
衛兵が守っている。
新婚の二人が、参拝に来て、写真を撮って行く。

ワシントンのアーリントン墓地も、参拝者が絶えない。
私が、最後に訪ずれた時は、ベトナム戦争で、最後に戦死した兵士の
葬儀を行っていた。
ホワイトハウス前の大広場で、反戦デモが繰り返されていた頃だった。

考えてみれば、米国もロシアも第2次大戦が終わってからも、75年経っても
今でも、ずうっと、戦争を続けているのだ。

日本という国は特殊だ。
昨日から始まった、自民党総裁選の3人の候補者は
どう考えているのだろう。

日米安保とか、ロシアとの国境ではない、日本だけで 出来ること、

「陸軍墓地をどうするか」である。 


このブログは、テレビ 映画 「鉄道員」を観るために中断した。
この映画を東京の封切館でみたのは、1959年だった。

当時は、日本もイタリアも、鉄道は国鉄時代、人の心は温かであった。

  
Posted by kinnyuuronnsawa at 10:07