2020年08月29日

1189 アベノミクスの終焉 2020.8.29

1189 アベノミクスの終焉   2020.8.29

昨日、5時からの安倍首相の退任会見テレビを観た。

感動した。よくやった、と思う。
「断腸の思い」は、ここでは誤用である。
安倍首相は、満足、納得しておられるのだろう。
同じ病気だったが、最初の辞任は痛恨事だろう。
今回は、よくやったと、思っておられるのだろう。

別の世界を比べれば、大相撲の白鳳、プロ野球の原監督の引退なみである。

今朝 8月29日の日経新聞の朝刊は、面従腹背である。

一面では、礼を尽くしている。

34,35面では、タナゴコロを翻して「森友・加計 晴れぬまま」
   「看板施策「道半ば」 女性活躍、働き方改革、地方再生、」
 と、揚げ足を取っている。

その前に、2面では、「アベノミクス未完」と、日米の株価、円相場
海外投資家の累計買越し額、実質GDP、失業率などのグラフを載せている。

これだけでは、何も書かぬに等しいので、私見を述べる。

「アベノミクスは、出口を迎える前に、総理が退陣した。」


日本銀行  直近 2019年度 決算 令和元年度末  貸借対照表 より         


国債     4.859.181 億円  485兆 9181億円   前年度比 (+)15兆9842億円 
上場投信   297.189        29兆 7189億円  
金銭信託     7.277            7277億円
不動産投信  5.753             5753億円

日銀の資産合計  6.044.846         604兆4846億円

国債を1年間に16兆円 買い増して、残高が486兆円になった。

まだ、毎月、買い増しは続いている。

いつまで、これを続けるのか、その後 どうするのか
不明のまま、同じことが続けられている。

その最中に、アベ総理が、辞めてしまったのである。

次期 総理の最大の課題は、アベノミクスの後始末である。




   

Posted by kinnyuuronnsawa at 11:35

2020年08月28日

1188 朝の始まりかた    2020.8,28

1188  朝の始まりかた   2020、8,28

  前回の 枕草子 を ひそみに ならって。

今朝、5時10分、ベランダへ上がった。

北を除いて、三方向が遠くまで見える。
まず、西の方を向いて驚いた。空が真っ赤だ。あたかも夕暮れのようだ。
これは、東で昇っている朝日を反射しているのだ。
なるほど、東では朝日が地平線を離れて、並んでいる、マンションの壁を
離れて、天空に上ろうとしている。

その陽光を最も反射しているのは、南の方に見える、幕張メッセの
2-3本の高層ビルだ。これが、ここから見える最高層ビルだ。

夕陽が沈む時と同じ現象をシンメトリックに、東からの朝陽が発しているのだ。

地球は丸い、光は直進する、光は反射する、太陽は東から登って、西へ沈む。
毎日つづいてきた、当たり前のことが、今朝も起こっているのだ。
コロナが 収まらなくても、日米の政局が揺れ動いても、止むことはなく。

しばらくすると、下の公園が動きだした。
まだ、人や車の動きはない。
電柱の上に、カラスが一羽、地面を歩く きじ鳩が一羽、
かえで、ねずみもち、の茂みのなかに、シジュウカラが2羽、
蝉は、まだ鳴かない。

カイズカイブキの並木と、公孫樹の群れは、テッペンに至るまで微動だにしない。
西側に1本だけ残っている欅の大木は、上の方の葉が少し動いている。
茶色になった葉も、何枚か附いている。

5時半、東の赤い空も西の赤い空も、消えた。
公園中も、その外も、白昼色、つまり無色になった。

こうして 今日の一日が始まった。


これを書いていたら、「天行健」という言葉を思い出した。
田舎の実家の仏間に掲げてあった額である。

いま「中国名言名句辞典」小学館 で調べたら 出ていた。

「天行健。君子以て自強して息まず。」 易経。

 いまでは おそすぎる。

 

  
Posted by kinnyuuronnsawa at 12:56

2020年08月24日

1186  桃太郎の海鷲 2020.8.23

1186   桃太郎の海鷲  2020.8.23

戦時中、日本政府は、アニメ映画「桃太郎の海鷲」を製作し、上映させた。

私は、これを観た。生涯で最初に観た映画である。
公開は1943年3月25日だけど、私が観たのはいつだろう。
 (山本五十六 1943,4,18 戦死)
観た場所は、名古屋市の鶴舞公園にある市の公会堂である。

1943年4月に、名古屋の附属国民学校入学、一年生時代は平和で安全だった。
2年の2学期は、名古屋から遠くない母の実家へ、姉、私、次弟の3名が疎開。
3学期は再び、名古屋の実家に戻された。
3年の1学期は、ふたたび、三名プラス母親、3弟、4弟の6名が母の実家の
離れ家で、疎開家庭を構えた。そして 3年生の6月、そこも追われて、
空いていた三河の父の実家に移った。名古屋には父だけが残っていた。
「孟母三遷」 拙は、2年間に「四遷」であった。


「桃太郎の海鷲」を観た場所は 公会堂だが、学校から行ったか、家族で行ったか
判然としないが、弟が3人おり、家族で行くことは難しい。
鶴舞には、市民病院があり、中耳炎で通ったので、一人でも行けた。

「桃太郎の海鷲」 内容は よく覚えている。

桃太郎が、犬、猿、雉を連れて 航空母艦に乗って、敵を 攻めて 大勝利だ。
鬼が島の鬼は米軍である。わかりやすい。
味方(日本軍)には ウサギの水兵もいて、耳を、動かして、手旗信号を送っていた。
この戦争は、空母による航空機戦である。グラマン、ロッキードなど 米国の軍機も登場する。

現実の真珠湾攻撃は、1941年12月に実施され、映画は、それをモデルにした勝ち戦だった。

私は、長い間、この「桃太郎の海鷲」の原作者は、手塚治虫だろうと思っていた。

「のらくろ」 「冒険ダン吉」「アジアの曙」「敵中横断三千里」などの連想である。
現実には、手塚治虫は 当時 幼な過ぎて この映画には参加できない。

8月22日(土)19時30分からの NHk 「その時 カメラは回っていた」で取り上げられた。

「桃太郎」の他、「学徒出陣」「特攻隊初陣?」などを、日本の戦争プロパガンダの例として
非難していた。見せるために 造られた映像だというのだ。

当たり前だろう。神宮外苑の学徒行進も 特攻隊の出陣も、入念な事前打ち合わせがあり、
リハーサルがあったはずである。
それが 本番として使われてしまった、だけのことである。



  
Posted by kinnyuuronnsawa at 11:13

2020年08月19日

1187 夏のあけぼの  2020.8.28

1187  夏のあけぼの   2020.8.28

「春は、曙。やうやう白くなりゆく、山ぎわすこし明かりて、
紫だちたる雲のほそくたなびきたる。」
1段 冒頭

「9月ばかり、夜一夜降り明しつる雨の、今朝は止みて、朝日
いとけざやかにさし出でたるに、前栽の露はこぼるばかり濡れ
かかりたるも、いとおかし。透垣の羅紋、軒の上にかいたる
蜘蛛の巣のこぼれ残りたるに、雨のかかりたるが、白き玉を
つらぬきたるやうなるこそ、いみじうあはれに、をかしけれ。」

すこし日たけぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに、
枝うち動きて、人も手触れぬにふと上様へあがりたるも、
いみじうをかし、と言いたることどもの、
人の心には、つゆをかしからじと思うこそ、またおかしけれ。」

126段  最後の1行が、清少納言らしい。

  
Posted by kinnyuuronnsawa at 16:02

2020年08月18日

1185 あの日のこと   2020.8.17

1185  あの日のこと  2020,8,17  

    
私は、国民学校三年生  a、 b、 a、 b、 c 校 と 2年2学期から 3年生の6月までに 3校を転々。

1951年の日記から。 海から8月11日に帰ったあと、13日はお墓の掃除。

  8月15日 
   ちょうど.6年前のあの時、昭和20年8月15日、国民学校 3年生以下の分遣隊で話が
あり 隣りの家で ラジオを聞いた。

現在での懐古
(4年生(わが姉、4年生)以上は、学校へ行き、授業はなく、毎日 勤労奉仕をさせられていた。
われわれ三年生以下の分遣隊は、公会堂に集まり、その部落出身の女教師と尼さんの指導で、
国語の本を読んだり、習字をやったり していた。一週間か10日ぐらい。
それでは、間が持てないので、近くの鞍ヶ池まで、往復し、カブトやクワガタを探したり、
桜の実を食べたりしていた。明らかに、3km 先の 学校へ行くよりは,近くて楽しい。

8月15日 正午 ラジオは よく聞こえないし、何もわからなかった。
学校へ行っていた4年生以上が帰ってきて、敗戦だと言った。

あの時、われわれ3年以下は.分遣隊と言われていた。4年以上 高等科2年までが本隊。
  いまの、コロナ休校とは大違いのバカバカしい対応である。
運動場はサツマイモ畑になっており、音楽室、理科室は、トヨタの機器、部品の倉庫に
なっていた。
8月15日より前は、全員が お宮の前に集まり、並んで軍歌を歌いながら登校した。
帰校は 勝手次第で、空襲警報のない時は、楽しかった。


1951年8月15日の日記

隣の家でラジオを聞いた。
あの頃 小さくて何も知らなかった。今から考えると幸か不幸か。
現在、あれ以後のことは記憶しているが、忘れかけてもいる。
多くの人は、現在を当然だと考え、過去を忘れている。
幸いなことだ。
勝った英米でも、これだけ海水浴には行くまい。

1951年9月9日

皇居の松に鶴が舞いおりたという。劇的な調印は無事に行なわれた。
次の問題だ、独立。 しかし、日米安全保障協定が事実上の占領に
なりはしないか。賠償がある。
過去を洗う雨とラジオはいう。

雨が降り、明日の弁論大会の弁論を直し、英語を少しやり、休養の一日を送った。

段戸の山は誰がために高く、矢作の水は誰がために号ぶ
三河男児 乞う行け、三河男児 須らく奮起すべし。
   三河男児の歌  志賀重昂

  1951年9月8日 サンフランシスコにて対日平和条約調印。

いま 2020年 8月15日

    世界は 米国、ロシア、中国が 牛耳っている。

思えば、この3国へは ずいぶん行ったものだ。
興隆、衰亡、復活の歴史を見て来た。




  
Posted by kinnyuuronnsawa at 09:03

2020年08月14日

1184 最終 我が15才の夏 2020.8.15

1184 最終 我が15才の夏   2020,8,15

8月10日 今日は、いよいよ最後の海だ。
豊川の女の子は(貴郎さんの姉の子)
貴郎さんが、連れて帰って何だかさびしくなった。
海へ8時から11時迄行って泳いだ。
水が冷たくて大変に気持ちがよい。今頃は みんな学校にいると思うと
何だかうらやましいような、さびしいような気持ちになる。
何と言っても宿題や勉強を長く休んだことが気がかりだが、心配することはない。
(昨日の補充授業と今日の出校日も休んだ)
午后は、もう疲れと暑さで、ちょうど図書を借りて「がんくつ王」「こじき王子」
「上杉謙信」などを読んだ。午後、一度も休まず読んでしまった。(学校の図書館)
大変暑くて、いつ迄も眠れない。

8月11日 起きてしばらく待っていると、父が来た。
東京出張の帰りで、心配していたが、これで、ほっとした。
今日も10時まで海へ行き、石を拾ってくる。父は、しきりに海の美しさを褒めていた。
12時の船で出るため江比間を、さらばしてきた。
思えば なつかしい7日間であった。
あるいは有意義でもある。水泳、釣り、伊良湖、美しい自然の風物、他人の家での態度
有益な楽しい行事は終わった。

福江から船に乗り、篠島、日間賀島、河和へ寄航して、大浜から上陸して帰る。

船は割に大きく、航行中は涼しくて島の散在しているところは 瀬戸内海を連想させる。
海は波があまりなくて、遠くの船は見えないので、やはり地球は丸いのかなと思う。

三河線に乗った時には、家へ帰ったら、まず水を飲もうと考えたり、
レイシやマメや稲は、どうなっているかと考えて故郷がいよいよ懐かしい。
修学旅行の時もそうだったが、学校をみると、ようやく、ほっとし、
夕立ちで涼しくなった道路を急いで帰った。

  今回は、二人の弟を連れているので、1年前とは違う緊張感があった。
その後、間瀬先生一家にお目にかかることは無かったが、10年ぐらいは年賀状を出していたと思う。


涼みいて上を仰げば松の木の 我をおおいてつかめるごとく

寺ひとつ青き木立や蝉しぐれ

1951年夏 長男 中学3年
        次男 中学2年
        三男 小学4年
    父  明治38年生まれ

家に   母   明治43年生まれ
      長女   高校1年
      4男   小学2年
      5男   小学入学1年前

   あれから 69年後 8人家族の内  現存は  4名。 




  
Posted by kinnyuuronnsawa at 11:30

2020年08月13日

1183 続 わが15歳の夏 2020.8.13   

1183 続 わが15歳の夏  2020.8.13

8月8日 喜郎さんがいないので、家で日記を書いていると、校長先生が
舟に乗っておいでと言ったので、行った。学校の小使いさんが魚を釣りながら
行ってくれた。舟は小さな「櫓船」で、えさは、あさりだ。

波は大変静かで づっと沖の方へ出た。つりは、竿なしで手の感じによって
上げるのだが、少しも僕はつれない。
そのうちに暑くなって少し気持ちが悪くなったので 船べりに寝ころんで
ばかりいた。下はまっさおな水、上は白い雲、時々海水を体につけて
暑さを防ぎ魚を釣ったり寝転んだりしていた。
小使いさんは20数匹、弟でも十数匹つったようだ。帰りに船につかまって泳いで
きたら いい気持ちだった。
日中は例によって休み 午後、先生と あさりを取りに行ったが、小潮のために
水はあまり引かず あさりは今日もだめだ。今夜も七夕の前で楽しく話をした。


8月9日 今日は、喜朗さんに、伊良湖へ連れて行ってもらった。バスはそれほど遠くないが
窓から風が入って涼しかった。初めて太平洋の波を見た時は少々驚いた。
山のような波というが、全く、向こうの方から段になってきて、岸へくると
ますます大きく、ついに その頂上からくずれて、打ち上げる。
それをいつ迄も くり返し くり返し している。
日出の石門は涼しかった。帰りはここで休んできた。海岸を歩くのは、波の
しぶきがかかって涼しいが、足をつかれさせた。大きな波がくると、ぬれるので
逃げたり、又寄っていったりして、燈台で弁当を食べた。 
燈台は思ったより大きく、立派な形であった。前の伊良湖水道を名古屋港から来た
汽船が通る。すぐ下には魚を取る船がいくつも浮かんで、原始的な、そして
人間業とは思われぬ手練で魚をついている。しばらく そこで休んでいたが
石門へもどり、泳ぎたかったがやめて 3時のバスで帰った。
口が大変かわき サイダーと水をのんで いきかえったようだ。

夜は近所で映画があった。はじめは つまらない映画ばかりで、ねむいのを
がまんしていたが、最後は「火山脈」をやった。フイルムは粗末だが、ストーリー
には感激した。野口英世の一生を人間的に描いたもので、この映画を観たら
奮いたたずにはいられなくなった。画面の英世が、この家の間瀬喜郎さんに
似ていると思っていたら、家へ帰っても、みんな そう言っていた。

                 以下 つづく 

 
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:43

2020年08月10日

1182 わが15歳の夏  2020,8,13

1182  わが15歳の夏   2020,8,13 

中学3年の日記の他に、海への旅行の記録が残っている。

 原文のまま。誤字、句読点も含めて。

 1951年8月5日

12時10分拳母発
   途中、稲はほこりをかぶってきたないが、渥美線だけは青々と
大変に美しい。車外の景色は変化があり過ぎて、ひろびろとした田へ出ると
始めてほっとしてくる。海を見た時は思わず声を立てそうだった。
この辺は松の木が多くてこの家の庭にも太い松の木があって、一日中
蝉が鳴いている。着いた時は涼しくて海へはいりたいとは思わなかった。
この日は、先生に海へ連れて行ってもらい、海岸や港を回ってきただけだ。

____________

8月6日
7時に起きた。家の前方は青い稲田が続いており、稲田の無くなるところに山がある。
朝はきりがかかっており、日の出と共に消えて暑い日となる。食事をして一時間も
過ぎて、喜郎さんと海へ行く。空は雲っていて、水はとても冷たかったが、それでも
泳ぐとそれほど寒くもなかった。
ちょうど波の一番荒い時でそれからボートに乗っているとみんなが来たのでボートを
二そうかりて乗った。波が荒いがこいで見ると簡単だ。大変 ボートは面白かった。
帰ってホースで体を洗い昼食後は三時まで昼寝だ。野球を聞いているうちに、つかれのため
ねむってしまった。それから、干潮だと言うのであさりを取りに行ったがもう潮が
満ちてきてあさりは取れなかった。仕方がないので、(海に注いでいる小川に)
つりに行くとはぜやふながたくさんつれた。
夜 ふろをもらいに行った時、けい光燈が美しかった。

8月7日
今日も暑くて9時頃から海へ行った。海では大体ひる頃まで遊んだ。
他に誰も泳いでいなくて相変わず静かだ。帰って校庭でキャッチボールをやったが
仲仲うまくやれた。日中はとても暑いので海へ行かずに昼寝だけだ。
いすに腰掛けている内に眠ってしまった。
それから たなばたをかざった。この辺は池田(郷里)と違って竹を二本並べて
間にちょうちんをつるしてあり仲仲盛大である。


ここで 中断して、いきさつを書く。

私が中学、2年の夏休み、野球部の3年生4人が静岡県の浜名湖へキャンプに行く
計画を立てていた。それに参加するように誘われていた。
ところが、学校当局に知られて中止を命じられた。
その後、行く先を県内の三谷という海水浴場に代えて実行することになった。
何故か学校は黙認した。

ところが参加者は減り、三年生が二人、二年生の私と、三人だけになった。
三日間の最後の一日、もう一人の三年生が参加した。
海岸で臨時に開いている売店に頼んで、2泊3日、泊めてもらうのだ。
代わりに併設している貸しボート屋の手伝い、夜は我々だけが寝ている。

無事、楽しく過ごしてきたが、両親は不機嫌であった。
2泊3日の予定を、無断で3泊4日にしたのもマズかった。
当時は電話なんか無かった。

そのためだろうが、翌年は父親が早々と決めてきた。
父の師範学校の後輩の人が 校長をしている小学校があった。
夜は、校長宅に止めてもらう。食事等も御厄介になる。
  当時 渥美郡泉村立泉小学校
  現在 田原市立泉小学校
先生の長男 喜郎さんが愛知学芸大学の学生で、夏休みだったので、我々三兄弟
の世話をしてくれた。

昼は海に連れて行ってもらったし、夜はゲームや話相手になってくれたり、
楽しませてくれた。なにしろ、戸数27戸の我が集落では、4年制の大学生は
私が初めてで、その後も、しばらくは我が兄弟だけという辺境育ちである。
中学3年生の私は、大学生と話すのは初めてだった。


.愛知県渥美郡江比間、すばらしい7日間であった。

山の中しか知らない子供が、初めて海を知り、広い世界を見た1週間であった。







  
Posted by kinnyuuronnsawa at 14:54

2020年08月07日

1181 屈原    2020.8.9

1181 屈原     2020.8.9

承前 8月1日の発表会で、絶句は杜甫の「登楼」であった。

律詩・古詩は屈原の 「漁夫の辞」を試みた。
これは詩経に載っている43行の辞賦で、詩ではない。
強いて言えば、散文詩である。

作者は、楚の「屈原」と みなされていた。

わたしは、これを朗読した。
最後に漁夫が吟じながら去って行く。
「滄浪の水澄まば、以て吾が嬰を濯うべく、滄浪の水濁らば
以て吾が足を濯うべし」 
 この部分だけを吟にした。  

かねがね、試みたいと思っていた、ことである。

この部分が、1昨日 誤消去されてしまった。

だから、思い出して、また 書いている。

今日は、8月9日、長崎の式典が、終わった後からであった。

注 1 北の詩と南の詩 
  2  横山大観と屈原
  3  郭沫若と屈原 

      岩波新書 屈原 目加田誠 著 


 1)  北の詩と南の詩 

中国最古の詩集は「詩経」である。これは、古代北方の詩集である。
孔子の時代、つまり周王朝の3-4百年間、およそ3百首ある。

これに対して、南方の楚に屈原という大詩人が生まれた。
これを集録したのを「楚辞」という。25篇あったといわれる。


2)横山大観と屈原

岡倉天心は東京美術学校を追われて、1898年、茨城県五浦に籠り、日本美術学校を
創設した。
横山大観、橋本雅邦、菱田春草、下村寒山 などが従った。

横山大観は1898年、「屈原」という代表作を画いた。

私は、学生時代、名古屋で開かれた日本美術院回顧展で、これを観た。
嵐の中を、屈原が歩いてゆく。後ろの両脇に、2羽の雀が従っている。
2羽は、岡倉天心の後を追う、横山大観と菱田春草だった。

五浦へは、2度行った。途中で 野口雨情の生家に立ち寄った。
一度はクルマで行った。春の向かい風が強烈だった。

3)郭沫若  岡山 六高、 九大医学部卒 難聴のため医師は断念。
最初は蒋介石の国民党にいたが、共産党に転向、
1928年日本へ亡命、市川に住む。

戯曲 「屈原」を執筆、これは1952年、 62年 日本で上演。

私の高校、大学時代、郭沫若はスターであった。

毛沢東、周恩来より、日本で有名だった。
私も崇拝していた。
魯迅に重ね合って、文人にして革命の推進者であった。

後に、郭沫若は毛沢東の盲従者に過ぎず、と、評価は覆った。

私も忘れてしまったが、屈原のことは覚えている。

「屈原」 目加田誠  岩波新書  1967,12 は 座右にある。

 











  
Posted by kinnyuuronnsawa at 09:45

2020年08月03日

1180 聖堂朗詠会   2020,8,6

1180  聖堂朗詠会   2020.8.6

御茶ノ水にある湯島聖堂で、詩吟の教室がある。

毎年4月から翌年2月まで、年10回 2時間の講座である。
昨年度は、上級は住田聖笛 先生,初中級は梅原大生 先生が指導された。

毎年3月に両クラス合同の発表会があり、3月1日に予定されていたが
コロナ危機のため中止になっていた。
8月1日に、簡素化して実施することになり、つつがなく終わった、
参加者は少なく、午前中で終了した。

冒頭の全員起立、窓外の櫂樹に向かっての発声練習無し、
全員の合吟、2,3、4人による合吟、連吟無し、
「助六」を取っての昼食・懇談会無し、と簡略化されたが、全員登壇して
梅原先生の伴奏付きで、絶句、律詩、各一首を、予定通り、吟じることが出来た。

圧巻は最初に梅原先生の、最後に住田先生の模範吟であった。

非常時ながら、聖堂朗詠会の名に恥じない発表会が実現できた。


私にとっては、昨年度は8年度目、今年が9年度目であった。
初年度の私は、絶句は藤井竹外の「吉野懐古」を選んだ。

1968年だったと思うが、はじめて吉野山へ行った。
山上の小さな博物館で、楠正行の「かえらじと」と、「吉野三絶」の展示を見た。
楠正行は、愛国百人一首で覚えていたが、「吉野懐古」は初見で、身体が震えた。

最初の発表会の律詩は廣瀬淡窓の「桂林荘雑詠示諸生」 だった。

そこへ行ったことは無いが、名高商の大先輩が大分県の日田で事業をやっており、
桂林荘の理事長をしておられた。その方から、度々 廣瀬淡窓の文献の
出版物を送って頂いた。

今度の、水害で日田地方が甚大な被害を受けたことで、思い出している。

さて 今年度の発表会では、絶句は杜甫の「登楼」、これは授業で習ったもの。
絶句・古詩は、新しい試みを行った。

屈原の「漁夫の辞」である。

   そのことを、丁寧に書いて、このブログに載せようとしたが、間違って
消去されてしまった。こういうことは時々あり、復元できるのだが、今回は
数回、復元を試みても実現しない。

ここで、諦めて、続きは 明日以降 書くつもり。

今日は ヒロシマの日だ。
あれから 75年過ぎたのか。







  
Posted by kinnyuuronnsawa at 16:34