2018年10月28日

1050 「柴又」 吟行会  2018,10,30

1050 「柴又」吟行会   2018,10,30

尾崎士郎という作家は、私が勝手に、身近に思っていた有名人である。
と言っても、話をしたこともない。

名古屋での大学生のとき、丸栄という百貨店の屋上で、尾崎士郎の講演を聞いただけだ。
その前に、「人生劇場」の最初の方は読んでいたし、映画も観ていた。
氏は 三河、吉良の生まれ育ちで、岡崎中学のあと、早稲田へ進み、驥足を展ばした。

私は 同じ西三河だが、もっと「山ガ育チ」である。

「人生劇場」では、早稲田の学校騒動が、序論のハイライトである。
大隈重信総長の夫人の銅像を学内に建てることに反対した学生と、学校当局との対立だ。

青成瓢吉ら、ストライキ賛成組が、柴又の「川甚」に集まって 気勢を上げる。
当時、早稲田から、柴又まで、どうやって行ったのだろう。
今でも、不思議である。
高砂あたりから柴又までは、交通機関はあっただろうが、早稲田からは遠い。


10月27日(土)湯島の聖堂朗詠会という詩吟の会で、今年の吟行会として、柴又から
江戸川べりに出て、吟行会を行った。

柴又の駅から、参道や帝釈天を通って川べりに行く前に、「川甚」が現れた。

本館、別館 大ビルデイングだ。
わが三河の先輩、青成瓢吉も夏村大蔵も 腰を抜かすだろう。


わが聖堂朗詠会の吟行会は、成功だった。

20名近い全員による合吟は、住田、梅原先生が用意した「勅勒の歌」「涼州詩」「峨眉山月の歌」。いずれも 辺境もので、この穏やかな、東京、千葉の境界には似合わない。

けれども、いまどき、吟行会ができる屋外の場所は少ない。

1昨年の細川庭園以来の、声を出せた吟行会が実現した。


私の詩吟は、7年度目だが、漢詩に目覚めたのは、高校入学からで、実は長い。

あと、何年続くか分からないが、今度の吟行会で、もう少し続けるかと、

思ったのは、事実である。


  「雪見に、転ぶところまで」か。



  

Posted by kinnyuuronnsawa at 11:48

2018年10月17日

1049 修復のいろいろ 2018、10、18.

1049  修復のいろいろ  2018,10,18

今日は、終わってみれば、好日だった。
生産性は高くないが、再生産性が高かった。

1) わがpcのwordsが、いつのまにか消去されていた。
勿論、自分のミスである。
文書を書くことも、保存することもできない。
この半年前からだ。

それでも、短い文章なら、ブログの新規作成ページでも、メイルの送信予備でも
書けるから、それで我慢していた。

昨日から、その修復に取り組んだ。

1) DELⅬ を 昨年の今頃、買い替えた。
そのとき、お世話になった人に電話した。
  このごろ、メイルでなく、電話で応答できる顧客サービスは少ない。
  みなさん、経験しているでしょう。
メイルでのやりとりは、時間がかかるし、返信がこころもとない。

2)そこで、電話した。買った時の、サービスアドレスにだ。
DELⅬは これが優れている。 
    
   すぐに、メイルと併用で、解決に取り組んだ。
延々 2−3時間 ついに修復できた。.

わたしが 誤って消去したwordsの復元である。




2)昨日から、上の居間のテレビが不具合。

昨日は テレビと BSしか映らない。
今日になったら、BSも写らない。

サービス電話したが、こういうものに応答する人は、いないものだ。

カタログ 案内書を 読んだがわからないように、できている。


思い余って リモコンの 乾電池を、いじった。

まず、入っていた乾電池をそのまま入れ直した。
BSが写るようになった。

Why ?  

更に 全部で、2本の電池を入れ替えた

なんと 地上、BS、CS 三本 全部が復元したではないか。
乾電池のせい、だったのか。

乾電池というものは、all suddenly vanish と 思っていた。

「マクベス」に出て来るロウソクのよううに、少しずつ消えてゆくことを初めて知った。




  
Posted by kinnyuuronnsawa at 20:34

2018年10月16日

1048 米国の名演説 2018.10.19

1048 米国の名演説 2018.10.19

「米国の歴史と民主主義の基本文書」という、B-4 版 180pの書物が見つかった。
猛暑が去ったので、この頃、「断捨離」を再開した結果である。

これは、当ブログ509回 09年2月10日付け「大統領演説の構文」で使っていた。
オバマ大統領の1期目の就任演説を論評するのに、ケネデイの就任演説との関連を書いたのだが、そのとき参考資料にしていた。


独立宣言、リンカーンのゲテイスバーグ演説、ウイルソンの平和原則14か条演説、
ケネデイの就任演説、キング牧師の「私には夢がある」など、政治家の18の演説を取り上げ、英文と日本語訳を記録したものである。
巻末に初代ワシントンから、43代 ブッシュJまで、全大統領のポートレートがある。

いま 読み直して、新たな発見があった。
特にジェフアソンとマッカーサーである。

米国の 大統領は、初代、ジョージ・ワシントン、2代目、ジョン・アダムス。
2人とも連邦党(フエデラリスト)だった。
3代目が、民主共和党、バージニア州のトマス・ジェフアソンだった。
このとき はじめて 激しい大統領選挙選が行われた。
ヨーロッパから見ていた多くの人達は米国はそのうち内戦に突入するだろうと考えた。
歴史上、ある党派が別の党派に平和裡に権力を引き渡した例が無かったからだ。

大統領就任演説は、1801年 激戦に勝った ジェフアソンが最初だった。
「それでは、皆さんの善意による支援を頼りに、私は謹んで仕事に向かいます。
皆さんが自分たちの力を行使すれば、もっと優れた選択ができると、感じたときには
いつでも私は身を引く覚悟です。
万物の運命を支配する無限の力が、われわれの行政府を最高の状態に導き、皆さんの
平和と繁栄に貢献できることを祈念いたします。」

2大政党の競争による政治が、こうして始まった。
トランプは、これを知っているだろうか。


ダグラス・マッカーサー元帥は、トルーマン大統領に解任された。
このとき私は、中学3年生、よく記憶している。
4月12日の日記に、無邪気に書いている。「解任の理由はアメリカの政策と一ちせず軍人でありながら政治に口を出したそうだ。僕は元帥が日本に帰化しないかなあと思う」

1951年4月11日、午後3時(米国時間)、マッカーサーが家に帰ったら、新聞記者が
群がっていた。大統領は、公式通知が本人に届く前に、公表したのだ。

5月3日ー5日、上院の軍事・外交合同委員会で、長時間の証言が行われた。
その全文が公表されたのは、1973年フルブライト上院議員によってである。

これに先立って、4月19日、上下院の合同会議で、発言の機会を与えられた。

その 全文が 記録されている。英文で Bー4版 7ページ。邦訳も同量。

「老兵は死なず」 だけが 残ったが、いま読み直すと、全体が、優れた世界観、
戦争観、ソ連観、日本観、韓国観 である。

一部を 紹介しても、誤解を招くので、ここでは、改めて感銘して、この報告書を
また保存することにした、とだけ 記しておく。

だから、私の「断捨離」は一向に進まない。


ところで、日本の外務省は、このような書物を海外向けに発信しているだろうか、
今のところ私は知らない。

  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:25

2018年10月12日

1047 明治の讀本  2018.10.14

1047 明治の讀本 2018,10.14

最近 「古事記物語」 鈴木三重吉 角川文庫 昭和50年11月版を読んだ。
原著は、「赤い鳥」に 大正8年7月に発表された。

巻末に 弟子であった坪田譲治の解説がある。
 広島で生まれ、三高 東京帝大英文科を卒業した鈴木三重吉は、夏目漱石に師事して
小説を書いていたが、35才から55才までの20年間は、児童文学者として活躍した。
児童向けの雑誌「赤い鳥」に、よって、我が国の童話文学が初めて世界の水準に達することができた。

「古事記物語」は 大正8年7月から翌年の9月号まで14回、連載された。
大正9年9月(1920年9月)には、上下2巻で「赤い鳥社」から出版された。」

「三重吉が、どういう気持ちで古事記を児童向けの物語にしたか、私は知りません。」

「三重吉が歴史童話と書いていることに注意しなければいけない。
 神話とか伝説と言うことができなかったのではないかと思います。」

「この古事記は、三重吉が書きづらかったばかりではありません。
 日本人の誰もが書きづらかったのであります」

「この三重吉の古事記のほかに、児童のための古事記はないようです。」

「ギリシア神話がいかにも大きな感じがするのに比し、古事記のなんと小さいことでしょ う。」「我が国の昔話はバカに手がるになっております。
 それは、わが国の国民性の一つのように思われます」


私は、古事記物語は、愛知第一師範男子部附属国民学校の児童だった頃からをはじめ、新制中学生の頃まで、何度も読んだ。

これは抄訳というより、古事記の現代語訳より優れた「古事記」だと思う。
古事記の歌謡を全部切り捨て、武烈から推古までの9代を省略した。


そのあと、1昨日、渋沢秀雄の 「明治の読本」を読んだ。
1978年発行のもの、いつ、なぜ買って読んだかは記憶がない。

著者は、明治32年 1899年に尋常小学校へ入った。
大実業家、渋沢栄一の4男で随筆家である。希代の文化人である。
なお、栄一の孫、渋沢敬三は、日銀総裁、大蔵大臣を務めた。

この本は、昭和46年1月号から52年2月号まで、79号にわたって月刊誌 「親と子」に
連載されたものを、江藤淳氏の提言により、出版したと、あとがきにある。

著者は、東京高等師範学校附属小学校の教科書「小学読本」7冊を秘蔵されていた。

この本は、79回に分けて、毎回 4ページ程度で叙述している。

読本の内容紹介と渋沢さんの解釈、感想が簡潔に書かれている。

読みやすいし、読み応えがある。一挙に読み通した。

今度の方が、感銘が深い、名著である。

ときどき、すばらしい脱線がある。

渋沢秀雄氏が もう高校生のとき、
「父 渋沢栄一翁は、親類の青少年を家に召集して「論語会」を催した。
床の間の前に宇野哲人先生、その隣に父が座る。1章ごとに 宇野先生が講義をされると、父も体験的注釈をつけ、それから質問や討論に移る」

「渋沢秀雄さんは、テキストの「ポケット論語」を開いた上に「アカギ叢書」という
文庫本の文学書を載せ、論語を読んでいるような外観を装う。
会のあとには、偕楽園の中華料理弁当が出る。
それを楽しみに「これで論語さえなければ」と横着なことを考えた。

これを読んで、おもわず笑いがこみあげてきた。

わたしも、新制中学3年生のとき、国語の教科書を立てて、手前に漱石全集をはさんで
読んでいた。先生はわが校ではめずらしく、日本女子大卒だった。

7−8年あと、東京で先生御夫妻の家に伺ったとき、真っ先にそのことを言われた。


渋沢栄一翁も、息子さんの「論語読みの、論語読まず」は、見破っておられたのだろう。



 

  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:59

2018年10月03日

1045 公園の公孫樹 2018.10.4 

1045 公園の公孫樹  2018.10.4

台風24号が、我が家も襲った。
何も被害はなく、一夜で終わった。

台風26号は、1959年に来た伊勢湾台風である。
入社1年目、久が原の独身寮にいた。
庭にあった杉の木が倒れただけで、何の被害も無かったが、翌朝から郷里の名古屋、拳母の被害が伝わってきた。私は現場に居なくて傍観していただけだった。

昨日から公園に市役所の植木職人が来ている。
昨日は、クレーン車が2台、ほか合計6台で8名が来て銀杏の木の枝の伐採をやっていた。
今日は、クレーン車は1台だが、同じ人が来て、続きの作業をしている。

今年は、我が公園は異常だった。
7月には、もうイチョウの樹に、銀杏の実が鈴なりに生っていた。
それは既に黄色だったが、小粒だった。
こういうのは、「虫いろみ」と言ったものだ。

9月になって、公園にも強風が吹きまくった。
銀杏の葉が、青いままで吹きちぎられ、落ちてしまう。
それが9月30日の台風襲来で、小枝ごと落ち、地面を覆いつくした。
早いもので、それが、昨日10月3日には除去作業が行われたのである。

銀杏の樹は12本だが、地面から20mほどで主柱は切りそろえられ、枝は伐られた。
小さな銀杏の実は、すべて落下した。
遠くから見ると、早くも緑は何も無く、電信棒か枯れ木が立っているようだ。


鎌倉鶴岡八幡宮の階段脇の大銀杏が倒れた翌日、見たことがある。
源実朝を討った公暁が潜んでいた、と謂われた大木の何代目かだ。
あれは、いさぎよい最期だった。

明治神宮や新宿御苑の公孫樹並木は、この60年間、何度も鑑賞した。
いまも健在であると思う。


 「三河男児の歌」 志賀重厚 と並んで
 「尾張男児の歌」杉浦重剛の漢詩があった。

「銀杏の村 清州の邑 借問す、昔日 (アスイ)誰を、生みしぞ。」

   信長、秀吉の再来を待望していた。





   
Posted by kinnyuuronnsawa at 20:31