2016年12月18日

966 習特演(ナラトクエン)

966  習特演(ナラトクエン)2016、12,18 
 
私の家から、ものの2kmも離れていない所に、航空自衛隊・習志野分屯基地がある。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」で有名になったが、秋山好古が居た習志野騎兵隊の後裔であり、住所は船橋市である。
地対空ミサイル部隊や、第一高射隊などが駐屯している。

今週になって、連日、爆音が響き渡っている。
7時から21時まで、外からの大型ヘリも加わり、ヘリコプターの離発訓練予定だと、HPに発表されている。

騒音は相当なものだ。
今朝、7時から1時間ぐらいは、わが家のベランダから仰ぎみると、東から来るのと、西北に去ってゆくのと、常に視野の中に2機が、入ってくる。
近いものは、私の頭上、200mに充たない高さである。

飛行機の爆音は、戦時中、嫌と言うほど聞かされた。
いまでも、恐怖がよみがえる。

ヘリコプターには、一度だけ乗ったことがある。
米国内の海兵隊基地で、上空を一回りしただけだ。
機内は、ものすごい爆音で、強力なイア・ホーンを使はなければ会話は出来ない。
それほどではないが、このヘリ訓練は、相当の騒音だ。
これは、21日まで、毎日続くと発表されている。

でも、こんなことに、不満を言うべきではない。
日本全国に、米軍および自衛隊の騒音に悩まされている人達は、ものすごく多いのだろうから。


    冬の朝 習志野原は今日も亦
        特演の日かや ヘリ多く舞う   拙 


  

Posted by kinnyuuronnsawa at 14:04

2016年12月10日

965 最初の取材

1953年6月20日
豊田市長室にて、インタビュ-。
北陸鉄道労働組合委員長 内山氏 
のちに私鉄総連、副委員長 

「内灘の真相を聞く
  泳げない漁夫を作るな!」

内灘村とは 13行」
第1次反対闘争  24行」略

第2次反対闘争

故里を売り、八千人の生活を脅かした林屋国務相を石川県民は倒した。
即ち、先の選挙に於いて民族の怒りは爆発し、改進党から共産党までの統一戦線で全県民一致して裏切り者 林屋を落選させたのである。

第2次闘争はこの時から始められた。
林屋の落選は、内灘村民にとっては裏切者に対する制裁であり、労働者及びインテリゲンチャにとっては、売国政府打倒への道である。そして、この成功から石川県民は団結の強さを知り、次の闘争への決意を新たにした。
さて、約束の4カ月が済んだとき、政府が継続永久接収を計るや、内灘村民の怒りは頂点に達し、決死の反対運動をくりひろげたのである。
先の選挙闘争委員会が、そのまま反対闘争実行委員会になり、売名主義の辻正信まで加わり、1カ月間の闘争が行われた。

この闘争中の在る日、見知らぬ人が5人やってきた。
彼らは、昼は日雇いとして働き、夜は海岸にワラ小屋をたてて、村民と共に座りこみをやった。
村民はいままでと違った運動に眼を見はった。
やがて、この人こそ、自分たちの味方であることを悟った。祖国愛に燃える共産党員だったのである。
同じ村に居て、自分たちの味方であるような顔をしている村当局の人や、むずかしい理論をふりまわす人々は、結局、村民にとっては、害になるだけであった。この共産党員に学んでか、北陸鉄道の労働組合は、弾丸の輸送を拒否した。
さらに京都の同志社から、学生が麦刈に来た。こうして、この闘争は、今や、政党を越え、すべてを越え、日本民族全部の心からの叫びとなったのである。
陳情からデモ、すわりこみ、彼等は、あくまで合法的に闘争したが、2500名の警官によって、常に脅かされた。

さらに、彼等の反対にもかかわらず、
試射開始は、6月15日と決められた。
まさに暴挙、人権も何も、あったものではない。

何故、アメリカは、こうまでしなくてはならなくなったか。
それは、資本主義社会においては、こうするより、方法がなかったのである。
では、どうして、この闘争が全国的なものになったのであろうか。

それについては、内山氏は、次のように語った。
理由の第一にあげられるのは、これまでの、いろいろな闘争によって村民が、現在自分達のおかれている地位を、はっきり認識してきたからである。
さらに、政党の統一闘争にも大きく影響している。
また、この闘争によって、統一することの重大さと、支配階級の持つ絶対的権力を、はっきり理解することができなかったことは、この闘争に敗れた原因ともいえる。

取材をして、これを書いた、高校2年生1学期の私の closingは、あきれるほど、貧困であった。
「村民の自覚は、この闘争に勝ち抜くことが出来るだろう。
自覚こそ最も大切なことだ。」



1953年6月23日
4人の高校生は、新聞を発行した。
b-4 ウラオモテ。紙面の3分の2は私が埋めた。内灘と貧窮問答歌で。
即日 発禁となり、卒業まで学校当局から、マークされていた。


1953、6,13 内灘村米軍試射場無期限使用反対で、農民実力阻止の座り込み
6.14 北陸鉄道、軍需物資輸送拒否スト
6.15 米軍 試射開始

1954、3,16 第5福竜丸 水爆放射能を浴びる 
1955、5,8, 都下砂川町で立川基地拡張闘争始まる 

1960、6,23 新安保条約発効 

  
Posted by kinnyuuronnsawa at 10:55

2016年12月08日

964 真珠湾・広島

964 真珠湾・広島 2016.12.8   

1)「昭和天皇実録」によると、昭和天皇が、米国との開戦やむなし、と決めたのは、昭和16年11月2日、東条首相、杉山参謀総長、永野軍令部総長に謁を賜ったあとである。
「作戦準備の促進は已むを得ざるも、極力、日米交渉の打開に努力するよう御希望になる」
翌11月3日、杉山、永野を再び、喚んで、海軍の作戦開始日が、12月8日であるとの奉答を受けている。

12月8日、(日本時間)午前2時50分天皇は起床、海軍軍装を召され、3時、学問所にて松岡外相に謁を賜う。
午前3時25分(ホノルル時間、7日午前7時55分)真珠湾攻撃開始、6時、大本営陸海軍部が、米英軍との戦闘に入ったとの発表が行われた。
この時点では、米英とも、日本の宣戦布告を受けていない。


2)昭和20年8月6日午後7時過ぎ、海軍省より電話で、本日午前8時頃、広島市上空に来襲の米軍爆撃機により特殊弾攻撃を受け、被害甚大との通報あり。

8月9日 阿南陸相は、2時30分開会の閣議に於て、本日午前11時30分、長崎に新型爆弾が投下されたことを報告する。
詳細は目下調査中なるも、被害は比較的僅少の見込み。

8月8日午後11時、ソ聯は、明9日より日本と戦争状態に入ることを通告、午前零時頃、満州国への進攻を開始。


あれから、75年という。
ヒロシマのオバマと、ハワイのアベ。
行って好かったと、素直に思う。

だが、それは、世界、歴史上、では、我々が思うほど、大きな事ではないのではないか、とも思える。


私は、敗戦当時、国民学校3年生だった。
当時、男の子たちは、よくケンカをした。
「ゴメンで済むならケイサツ要らん」
と言って、ゲンコツ禁止で、やりあった。

今年の、ヒロシマ、ハワイは、何だったのだろうか、引続き考えて見たい。

  
Posted by kinnyuuronnsawa at 08:22

2016年12月03日

963 昭和天皇実録(9)

963  昭和天皇実録(9) 2016.12.03 

例えば 昭和20年8月15日である。
この日の実録に付記されている参考文献を記す。
午前10時まで、43点
以後35点 19点 20点 10点 
合計 重複を含め1日で127点

この実録は何だろう。
多勢の書いたものから成り立っている。
1)物凄い数の1次資料がある。
2)それを集めた人が居た。
3)それを読んだ人が居た。
4)それを、整理して日記に仕立てた人が居た。
5)それを統合して、年報にした人が居た。

膨大な人数による、作成である。
「古事記」や「日本書記」とは、比べものにならない大作業である。
その割には、新しい事実の発見は無かった。
いままで、書かれ、映画にもなった事も多い。

私は、第九巻、昭和18年― 20年まで読んだ。

これまでは、失望、次からが、楽しみである。
どのように変わったか。
天皇の役割や、天皇を取り巻く人たちが、である。
昭和20年から、一挙に急変では無かったのであろう。

それを知るためには、最新刊まで読まなければならない。

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11月は、このブログ NO UPに終わった。
特に理由はない。
まだ、達者で過ごしています。
ただ、1000回になるのが、オソロシイ気がするのである。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:18