2014年10月24日

889 home coming day 

889 home coming day 2014.10.24 

10月18日、東大のhome coming dayを、覗いてみた。
快晴の土曜日であったが、すこぶる低調である。
2012年にも行ったが、その時に比べても、活気がない。

唯一の収穫は、懐徳園という庭を参観できたことだ。
ここには、水の張ってない、岩ばかりの池がある。
竜安寺の石庭には水の代わりに砂が敷き詰めてあり、こういうものは珍しい。
隣の三四郎池が、緑や茶色に濁っていたのを見たあとだけに、午後の日差しに照らされて、さわやかな感じがする。

東大もミレニアムの大晦日には活気があった。
当ブログ「新世紀の安田講堂」01.1.1 

全学部のエース教授達による、各3分間の報告のあと、安田講堂の前で、カウントダウンがあり、学長の発生でシャンペンでの乾杯があった。

活気はないが、今のキャンパス内は、「タテカン」も無く、著しく清潔だ。
香港のように、学生が騒がなければならないのは、正常ではない。
東大も大学らしい静けさを取り戻し、学生も教員も学問に励んでいるのだろう。

ミレニアムの時、見事な3分間プレゼンテーションをされた16名の教授も、21世紀になって、活躍されているに違いない。
もう名誉教授になっている人も、多いかも知れない。
私は卒業生でもないアウトサイダーだから、わからない。
さきほど、昼のNHKニュースで、名誉教授の根岸隆氏が、文化勲章を授与されたのを知り、欣快の至りである。

この原稿は、最初の8行は18日に書き、残りを今日の午後書いていた。
よくあることだが、何かのキーの押し間違いで、ほぼ書き終わったあと、文章が全部消えてしまった。
こういう時は、あわてない。
カーライルの母親が「一度書いたものなら、もう一度書けるでしょう」と言ったことを思い出し、書いてみたら簡単に復元できた。

この年になっても、直後にやれば、長いものでも思い出せるものだ。

 ナサケないが、それが、本日での最大の収穫であった。
  

Posted by kinnyuuronnsawa at 16:21

2014年10月11日

888 東京五輪の頃

888 東京五輪の頃 2014/10/11 

これで888回、よい数字である。
昨日は、東京オリンピック50周年、いろいろ報道されている。
私も、当時を思い出している。

1)私は、いわゆる証券アナリストとして、電機業界を担当しており、東証1部、2部上場会社、なんと、約110社を担当していた。

1部は、年2回、2部は、年1回、「上場会社概評」という「会社四季報」のような社内レポートを書いていた。
この締め切りが難儀だった。

社数が多いので、書いても、書いても、終わらない。
それ以前に、毎日、担当会社を訪問するのだが、当時はIRなど、考えている会社は稀であり、取材は困難を極めた。

それは、それで面白かったので、いつか書いてみたい。

2)オリンピックを目前にした、1964年2月、「不況抵抗力に格差がついた重電大手」という論文を書いた。
東芝、日立、三菱電機、富士電機、明電舎などの収益力を比較し、東芝の凋落と日立の優位を予想したものである。

1965年3月決算で東芝が赤字・無配になったのは、4月1日に野村総合研究所が設立され、同時に、転勤した大阪で知った。

1964年10月、オリンピック当時、世の中は賑わっていたが、私の担当していた電機業界には、不況が近づいていた。
その主役になったのは、家電、とくに白黒テレビである。
首位の東芝、家電専業の松下電器に、流通在庫の増加が起こっており、それを、経営は看過していた。

10月のオリンピック当時、私は、すでに起こっていたテレビ中心の家電不況の分析と予測に没頭していた。

3)東京オリンピックは、何もみていない。
ヘイズの100mや、円谷選手の1万mは、会社の近くの東急百貨店の家電売り場で見た。

閉会式は、浦和の自宅のテレビで見た。
この瞬間、世界で戦争は無く、全部が平和なのだと涙を流していた。
実は、この時も、ベトナム戦争は激化しており、南米、アフリカ、中東、ソ連、中国周辺など、流血は続いていたのは、後で知った。

4)一見、好況のようでも、不況の芽は出ている、ということを、1964年の家電不況で知ったことは、すぐに役に立った。
1965年4月に大阪に転勤すると、まもなく合繊の不況に遭遇した。
東洋レーヨンを、つぶさに観察できたことは、のちにトヨタ自動車が、マスキー法対策や、欠陥車問題で苦闘したときの対応を評価するのに、大いに役立った。

5)オリンピックまでの昭和30年代、松下電産、東洋レーヨン、トヨタ自動車は、株式市場では、高成長を体現する代表企業だった。
それらは、実は、東京オリンピックの頃には、問題を抱えており、前途に不安があったことを、私は、いま思い出している。

何でも、あのころは好かった、とは、とても言いきれないものだ。

いまでは、東京オリンピック賛歌が、心地よいが、すでに芽生えていた、その反動もあっての昭和40年不況と重なりあってしか、私には、当時の記憶は、復元してこないのである。

現象と真相というものは、これからも、そういうことなのであろう。

  
Posted by kinnyuuronnsawa at 20:28

2014年10月09日

887 近隣窮乏化政策

887 近隣窮乏化政策 2014/10/09 
    
「1930年代の世界恐慌期において、国際収支の逆調に悩む諸国は、(1)為替相場の切り下げ、(2)賃金引き下げ、(3)輸出奨励金の交付、(4)関税引き上げあるいは割り当て制の強化による輸入制限、などの重商主義的諸方策を通じて、貿易差額の改善に狂奔した。」
これを、英語でbeggar−my−neighbour policyという。
「一国が近隣窮乏化政策を遂行するならば、必然的に他国の報復をよび起こし、その結果、世界貿易の縮小、ひいては全世界を持続的な沈滞に陥らすことになる。」
「これを補正するため、国際的な信用供与機構が構想され、戦後におけるIMFとして結実したのである。」
  経済学辞典  1994年版 大阪市立大学 経済研究所  

{欧州中央銀行のドラギ総裁は2年前、(2012年7月)ユーロを救うために「何でもする」と誓った。
さらに、失速したユーロ圏経済を回復させるために、あらゆる金融政策の武器を使うと約束した。
ドラギ氏は2014年10月2日、最新の武器を用意した。
すなわち資産担保証券(ABS)やカードボンドと呼ばれる債権の買い入れ実施だ。
ところが、ECB内外からの見当違いの異論が、同氏の自由な射撃を引き続き妨げている。}
{ドラギ氏はECB総裁として就任して以来ずっと正しい直感を示してきた。
ユーロ危機で間違いを繰り返してきた批判勢力は、ドラギ氏の前にたちはだかるのをやめるべきだ。}
10月4日 日経 朝刊 英フイナンシヤルタイムズ紙特約 

!? 当局の誘導による為替レートの切り下げ、賃金の引き下げ、輸出補助金、輸入制限など近隣窮乏化の4手段の使用は、第2次大戦後のIMF、WTO体制では禁止されているはずだ。
しかし、実際は、現在も形を変えて、中央銀行によって堂々と行われている。

米国は、これに成功して、ドル高、景気回復が実現して、いまや出口政策にかかっている。
日本は、アベノミックスで、極端なことを行っている。

そこへ、欧州中央銀行も、同じようなことをやろうとしている。

世界一のquality paperが、いま、これを奨励している。

!?    !?    !?    !? 
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 10:25