858 新ロシアとソ連 2014.2.28
ソチの冬季オリンピックを見事に成功させて、ロシアは見直された。
よくぞ、ここまで立ち直ったものだ。
同時に、ウクライナへの介入でわかるように、ソ連時代の行動方式は変わっていない。
私は、ソ連が崩壊した前後のことが記憶にあるから感慨無量である。
そこで、過去ログを掲載したくなった。
古いことを引用する場合、たいていの事は自分が書いている。
それを使うほうが便利だ。
けれども、簡単に転載できるかと思って、今日は数時間トライしたが、不可能だった。
結局、打ち直した。
既出「金融論茶話」
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「経済危機からの離脱」 2000.12.2
わが国では90年代を空白の時代とか、ポストバブルの経済危機というが、ロシアの90年代はそれどころではない。
私自身も10年間の空白の後に、モスクワで話を聞いたり、統計を見たりして、今更ながら驚いた。(データは大島梓・小川和男 最新ロシア経済入門およびロシア東欧貿易会資料による)
冷戦末期の87年にはCIAによると、米国の総額を100とすると、ソ連は54、日本は36、だった。
一人あたりでも米国を100としてソ連は46、日本は72と、かならずしも、ケタ違いではなかった。
それが96年度については、世界銀行のデータによると、ロシアのGNPは米国を100として5に過ぎない。
この経済規模は韓国、スペインを下回り、メキシコを僅かに上回るだけである。
こうなったのは、ソヴイエト連邦から14の共和国が離脱し、人口が半分近くに減ったこともあるが、そのせいではない。
10年間にわたる、すさまじい経済活動の混乱のためである。
91年を100として鉱工業生産は、98年に50に低下した。
生産が減少する中で、92年に価格の全面自由化政策を導入したのでインフレが起こった。
92年の消費者物価指数は前年の26倍になり、こうしたインフレは98年1月の1000分の1のデノミまでつづく。
インフレはルーブルの価値下落と直結する。
92年に公定レートは1ドル100ルーブルだったが、毎年下落が続き
95年には5000ルーブルを突破した。
為替レートはデノミの結果、1ドル6,2新ルーブルを中心に管理フロート制に移ったが、持ちこたえられず、98年8月の金融危機を迎えることになる。
市場経済に移行したばかりのロシアは、市場経済の最も大きな難問であるリスクのグローバルな波及と加速に巻きこまれる。
つまり97年にバンコックをスタートした国際金融危機では、市場経済の新入生であるロシアが、98年にアンカーをつとめたのである。アンカーはストッパーではない。
IMFなどの救済を仰ぐ。
98年危機の結果、ルーブルは大幅に切り下げられ、99年以降は1ドル27-28ルーブルで推移している。
今回(2000年9月)の訪問先では、どこでも99年以降の景気回復を述べていた。
その理由として、外的要因として(1)ルーブル下落による輸入の抑制、(2)エネルギー価格高騰のメリット、内的要因として(1)企業のコストダウン(2)財政の改善などが挙げられていた。
2000年のおおかたの予想は、GDP+5% IIP+8% インフレ20%以内、とのことだが、これなら立派なパフオーマンスである。2001年もエネルギー価格の極端な下落やルーブルの高騰はないだろうから、ひきつづきGDPのプラス成長と、インフレの沈静が続くという見方を多くの人から聞いた。
この10年間に蓄積された負の資産は多いが、ロシア経済はフローベースでは、ひとまず立ち直った。
そのきっかけは、アジア諸国と同じく国際金融危機の洗礼であった。ということは、ロシアは見事にグローバル市場経済の一員になったということである。
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2014年の今、言えることは、ロシアという国は、西欧的経済指標では、一旦は壊滅したのだ。
だが、今は、それに関しても復活して、世界の大国に伍している。