2014年01月27日

853 憲法第9条

853 憲法第9条 2014,1,27 

「偽徒然草」尾崎士郎、昭和30年3月 実業之世界社 
古書店で入手して、拾い読みをした。

{「私の憲法観」P33−36に、こういう文章がある。
「一昨年「天皇機関説」という小説を書いたとき、美濃部亮吉、大内兵衛、小原直、戸沢重雄、金森徳次郎氏ら9名の来臨を仰いで一夕談じたとき、宮沢俊義氏から、次のような話を聞いた。酒席の余談であるから、宮沢氏にとっては、もちろん責任のある言葉ではない。
しかし、私は、これを興味ふかく聴いた。
新憲法が制定されたとき、参議院の壁に落首するものがあった。
「金森は二刀流かな国体を変えたるくせに変えぬとぞいう」というのである。
落首の筆者は当時、参議院議員であった山本有三氏であるということであったが、真偽はもとより私の知るところではない。すると、これに対して、金森氏が一矢報いた。
「名人の剣(ツルギ)二刀のごとく見え」

新憲法制定の重任を帯びた金森氏の心境は尋常ならざるものがあったであろう。
金森氏の満々たる自信の裏に想像も及ばぬような苦労のあったことを察した。
彼が、戦前、法政局長官時代に四面楚歌の中に立ちながら節を持して動かなかったことを知っているからである。」

「第一条 天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く、という表現は、金森氏の苦心の、もっとも難渋を極めたところのものであるらしい。
私は象徴という文字の示すところに、金森氏の抵抗を感ずる。
言葉は曖昧模糊としているが、しかし韜晦な表現ではない。
当時の日本の置かれた最悪の政治環境と最悪の社会的事情の中にあって、庶民生活の安泰を期する感情の、もっとも率直な動きを把握したものというべきである。
参議院の落首は、この「象徴」という言葉の示す茫乎として悠遠なるものを一つの角度において諷刺したものであろうと思う。
だからこそ「 名人の剣 二刀のごとく見え」は、実に秀抜なる川柳というべきである。
解釈は各人の勝手であり、国民感情の流露するところに一つの形を整えたということも、単に敗戦国民として一から十まで強権に追随したものではないことを示してなおあまりあるものがある。」

金森徳次郎氏は、1958年(昭和33年)7-8月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載している。
政治家の回顧録は、読むに耐えないが、これは別物である。

憲法施行の昭和22年5月3日の朝、自宅へ新聞記者が来て、一句を所望した。
  「葱坊主、麦の穂などがスクスクと」
柿の木の下に見事なネギが生えていたのである。

のちには、こんな短歌も残されている。
   人と人 国と国とに怒りなく 
   怨みなき世といつかはあらせん


経済学者の金森久雄先生は、「男の選択」と題したコラムを昭和62年1月に、日経から出版された。

最後のぺージのコラムのタイトルは、「歯は滅びても舌は滅びない」である。
「私の父は、憲法議会の時の大臣であったが、第9条に関連して陸海空軍がなくても国の安全は守れるかと質問された時、「歯は滅びても舌は滅びない」と答えた。
強いものは死んでも弱いものは生き残るという老子の思想である、」


  

Posted by kinnyuuronnsawa at 16:38

2014年01月20日

852 聖堂流漢学 

851 聖堂流漢学  2014.1.20
 
もう、過ぎ去ったことだが、元日の湯島聖堂で「学問初め」が行われるのを知っていたので、出席を予定していた。
宇野茂彦先生が、元日の午前10時に「子路第十三」を講義されることになっていた。
大晦日は、すこし予習をして、早く寝ておいたのに、あろうことか、12時間も寝てしまって、欠席をやむなくされた。
かくて宇野茂彦先生の謦咳に接する機会を失った。

実は、1996年の4月から、湯島の聖堂で、年10回の宇野精一先生の「論語」講座に通っていたが、残念ながら3回ぐらいしか出席できなかった。
その後、2009年の4月から、鹽谷建先生の論語の素読を2年間、受講したほか、他の講師の「孫子」「白楽天」を受講したが、進行速度に、物足りない感があった。

よかったのは、受講者が4人だけの、鹽谷健先生の「漢文教育講座」だったが、(国語科教員等を対象にした講座)という条件に触れ、半年で受講を断られた。
その後は、聞きたい講座もないので、今は 詩吟を習っている。
そのことは、(831) 僅か1年の恩師、(832) 残された絶唱  に書いた。 

2009年4月19日から、私が「論語」を受講した鹽谷健先生は、鹽谷温先生の直孫であり、湯島聖堂の講義には、いつも羽織袴、雪駄ばきで登壇された。

私は、20年近く前、宇野哲人先生が編集された昭和漢文叢書24巻を、神田の古書店で買った。
およそ全集というものは買うだけで、読まないものである。
だが、この全集は、いまでも取出して抜き読みしている。

宇野哲人先生が書かれた「一筋の道百年、宇野哲人遺著」1974年 集英社を、咋年、古書店で入手した。
1996年に、私が、宇野精一先生からポツリポツリと伺ったことも、いくつか書かれている。

明治、大正、昭和、平成にかけて、日本の漢文教育をリードされた巨人は、宇野哲人先生と鹽谷温先生である。
その孫である鹽谷健先生と宇野茂彦先生が湯島の聖堂で、いまでも教鞭を取られていることは、有難いことである。

両家の3代の歴史をたどるのも、楽しいことである。








  
Posted by kinnyuuronnsawa at 15:52

2014年01月09日

851 ヒヨドリの歎き

851 ヒヨドリの歎き 2014.1.9
   
1月5日の朝、なにげなく、公園を眺めていた、
何度か登場した、我が家の南隣のサンクチュアリである。

スマートな姿を見せてオナガがやって来た。
いつものように、10数羽の美しい集団が見えるだろうと期待していたが、その日は違っていた。

飛んで来たオナガは、それぞれ、カイズカイブキの葉の中に隠れて、姿を現さない。
気がつくと、いつもは公孫樹の梢に停まっているムクドリの群れが、地面を歩き、カイズカイブキの並木の下へ向かっていた。
二つの集団で争いが始まるのだろうかと、30分ほど見ていた。
やがてオナガの群れは集まることもなく、別々に飛び去って行った。
それを待っていたかのように、ムクドリの群れもいなくなった。
冷戦だけで終わったようだ。

1月8日の午前中、市役所から派遣された植木職人が二人、クレーン車で来て、ケヤキの枝を伐り始めた。
この公園の西側の入り口の左右に、樹齢8-90年だろうか、ケヤキの大樹があったが、咋年秋の台風で1本は倒れ、切株も処理された。
残りの1本の枝を払う作業は、2時間ほどで終った。

今朝、見ると、ヒヨドリが、1羽だけ、咋年、枯れて、やはり3分の2ほどが切り取られた桜の樹にとまっていた、
ケヤキの大樹には、ヒヨドリが2羽連れで、よく来ていたものだ。
そこは、オナガの集合場所でもあった。

今朝、オナガも来たが、そのまま飛び去っていった。

思い出したことがある。

  「うぐいすや賢(カシコ)過ぎたる軒の梅」 蕪村 
 
村上天皇に、庭の紅梅を取り上げられた紀貫之の女が
「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へん」と
詠んだ故事を受けた句である。

わが公園のケヤキは、天皇より強力な台風様に、1本は根こそぎ倒された。
残った1本も災害防止のため、無惨な丸坊主になってしまった。

今朝は、ヒヨドリの歎きが、聞こえていた。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 11:22

2014年01月03日

850 何となく正月

850 何となく正月 2014.1.3 

2014年の正月、穏やかで、暖かい三ケ日だった。

「何となく、 
今年はよい事あるごとし。
元日の朝、晴れて風なし。」 

この石川啄木の短歌を、思い出すような好日だった。
だが、この年になってくると「何となく」に抵抗がある。
「何となく」ではダメで、論理的根拠を求める、という哀しい性(サガ)が、浸みついている。

啄木は、「なんとなく」「なにげなく」を使っている。

「何となく明日はよき事あるごとく思ふ心を叱りて眠る」

「何となく案外に多き気もせらる、自分と同じことを思ふ人」

「何となく顔がさもしき邦人クニビトの首府の大空を秋の風吹く」

「何がなしに さびしくなれば出てあるく男となりて
三月にもなれり」 

「何となく汽車に乗りたく思ひしのみ
汽車を下りしに、ゆくところなし」

「何がなしに
肺の小さくなれる如く思ひて起きぬ
秋近き朝」
   明治44年8月21日 登用日記 


石川啄木 明治45年4月13日 没 


何となく、なにげなく、何がなしに、
  その言葉を思う 新年である。

今年も おつきあいください。 

新編 啄木歌集  岩波文庫 1993.5 
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 13:05