2013年06月26日

834 ネルソン・マンデラ再

834 ネルソン・マンデラ再 2013.6.26 

入院中の南アフリカの元大統領、ネルソン・マンデラ氏は、重篤(CRITICAL)な容体であると報道されている。7月で満93才。
―6月24日、ヨハネスブルグ発、共同、日経。―

今から27年近く前に、私は、以下のコラムを書いた。
  636 ネルソン・マンデラ 2010.6.12。

{「殉教者にしていいか、1986,10,13」
米国で経済制裁法が成立して、南アフリカ問題は新たな局面に入った。
貴金属の市況が高騰しているが、もとより影響は経済分野にとどまらない。
遠い国の出来事だが、世界をゆるがす事においては、ベトナム戦争に匹敵する危機にもなろう。
ここで注目しておきたい人が、南アの獄舎にいる。
ネルソン・マンデラ氏である。
咋年(1960年)10月、英連邦49カ國は7人の委員に南ア問題の調査を命じたが、そのレポートが今年6月に発表された。
現地でのヒアリングもふまえて、いくつかの提案がなされているが、その中にマンデラ氏の即時かつ無条件の釈放が含まれている。
彼は捕えられて24年になる。
人種差別に反対しても当初は無抵抗主義を貫いてきたが、ついに屈従か、さもなくば闘うかに追い込まれ、組識的なサボタージュを指導した。
世界に実態を知らせ、政府に打撃を与えない限り、黒人たちの自由の獲得は困難と考えたのであろう。
7人委員会のレポートによると、彼はさわやかな印象を与えつつも威厳にみち、看守たちにまで尊敬されているという。
南アだけでなく、全アフリカの黒人たちが獄中の彼を指導者としてあがめており、釈放されれば、無秩序の様相を呈している黒人側の闘争をうまく統率して、政府と話し合いが始まる可能性がある。
もっとも、南ア政府は彼を危険人物とみており、白人を追い払って黒人政府を樹立させる便宜を与えるに過ぎないと、釈放に反対している。
マンデラ氏は両刃の剣であり、南ア政府にとってジレンマだ。
そういえば各国の経済制裁もボタ政権だけでなく、近隣の黒人諸国を巻き添えにしかねない。
米国も英国も国論が分裂しつつある。
問題のルーツは深く、広がりは大きく、南ア危機の行方は予想しがたい。
ただ一つだけ明らかなことがある。
どの国の改革にも、優れた指導者と殉教者がいる。レーニンは前者であり、ガンジーは後者だ。
指導者は一人ではないし、弾圧する側から見れば、消せば事がすむ。

だが、殉教者は違う。
それは死の直後から運動に強力な影響を及ぼし、いつまでも名前は消えない。
マンデラ氏は、すでに68才、南ア危機解決に残されている時間は乏しい。}1986、10,13 

その後。
1990.2.11  釈放、収監27年。
1991年、アフリカ民族会議 議長に就任、1997年 退任
1993,12.10、ノーベル平和賞受賞(当時のデクラーク大統領と共に)
1994年4月 大統領に就任、1999年退任



  

Posted by kinnyuuronnsawa at 10:42

2013年06月24日

833 奥羽越新政府案 

833 奥羽越新政府案 2013.6.24 

承前
3月3日に、二人の先生が最後に吟じられたのは、幕末の会津藩士、および米沢藩士が作詞した名作であった。

漢詩、「白虎隊」は七言二十句から成り、十三句―ー十六句の
「南 鶴ガ城を望めば砲煙颺る/痛哭 涙を飲んで且つ彷徨す/
宗社亡びぬ 我が事畢る/十有九人 屠腹して僵る」が有名。
作者、佐原盛純(1835−1908)は、会津若松の出身。

漢詩、「棄児行」は七言十二句から成り、一句―ー四句の
「斯身飢うれば斯児育たず/斯児棄てざれば斯身飢う/捨つるが是か棄てざるが非か/人間の恩愛斯の心に迷う」が有名。

米沢藩士の雲井龍雄(明治3年12月28日、小伝馬町の牢屋敷で斬首され、小塚原の刑場に梟された。亨年、27才)が、作詞したとされていたが、実は、この「棄児行」は、雲井龍雄の作ではなく、同じ米沢藩士の原正弘の作であることが、わかった。

藤沢周平は、雲井龍雄のことを、「雲奔る」という小説で克明に記述しているが、1975年3月に書かれた「あとがき」で、そのことを書いておられる。―「雲奔る」藤沢周平 2012.5.25 中公文庫― 

「雲奔る」によると、東京府が、政府に対する反逆で斬首したのは、雲井龍雄のほかに13名、それに先だって獄中で22名が死亡している。
戊辰戦争の敗者に対する苛斂誅求の激しさを、ここでも知らされる。
これを藤沢周平は、東京府による大獄と表現している。

「雲奔る」232ページには、次の記述がある。
   慶応4年(1868)
「仙台藩亘理の舘守 伊達五郎が上書した新政府案である。

輪王寺宮公現親王を即位させて東武天皇とする。(当近は孝明天皇)
慶応4年6月16日を以て、大政元年と改元する。
奥羽越による新政府は、太政大臣=九条関白、征夷大将軍=仙台新三位、副将軍総裁=松平容保、次いで、月郷、雲客、北面、軍師などの人事に加えて、奥羽蝦夷海陸兼守衛、出羽探題守衛、白河口防禦、越後國奸族防禦など役職案が記載されている。

6月22日に、この奥羽越列藩同盟は成立すると、自らを官軍と称え、薩長土による征討軍に対する作戦書全文23条の中には、対外政策まで含めていた。
これに応じて、すでに諸外国も、奥羽越を征討軍と対等の交戦国とみなしていた。
この新政府が発足すれば、奥羽越に独立国家が出現する。」

流石、藤沢周平である。
いまから30年近く前(1982年)に、よくぞ書き残してくれたものだ。

6月21日、朝8時から9時まで、NHKがBSプレミアムで、歴史館選 「戊辰戦争白虎隊悲劇その裏には」を放映していた。
驚くべき内容だった。
松平容保が、北海道の一部をプロイセンに売却しようと、申し入れたが、ビスマルクが断ったという内容だった。

幕末の対外関係は、米国、英国、フランス、ロシアとの関係が目立ち、プロシアとの外交関係の記述は少ない。

年表を見直してみた。
近代日本総合年表、1853−2000 岩波書店

1860.12.17 函館奉行兼外国奉行 掘利煕、プロシアとの条約紛議のため自殺。
1861.1.11 孝明天皇、幕府のプロシアとの条約締結奏上(11.28)に怒り、和の宮、降下破約の意志を九条関白に示す。
(所司代の懇請により撤回)
1861.1,24 プロシア使節オイレンブルグとの間に修交条約を江戸で調印。

ビスマルクが、プロシアの宰相に就任したのは、1862年9月30日だった。
1866年6月14日、普墺戦争、1970年 7月19日、普仏戦争。

北海道売却の申し出をビスマルクが断って、日本は救われた。

当時の日本の領土に関して、当時の藩主たちが、どうゆう自覚を持っていたのか、知りたいと思っている。






  
Posted by kinnyuuronnsawa at 11:44

2013年06月03日

832 残された絶唱

832 残された絶唱 2013.6.3 
 
承前。
窪武彦先生が、今年になって指導された漢詩は、年度初めに予定されていたものを差し替えたものだ。
なぜ替えられかは、知らないが、1,2,3,月に教わり、先生の指導 独吟を聴いた詩は、強烈な印象を残したものばかりであった。


それらは、隠遁者の花鳥風月譚ではない。
大きな、強い男が作詞。―(漢の武帝  秋風の辞) 
英雄を詠んでいる。―(周の文王 天保九如) (諸葛孔明 蜀相) 
誰かの死や、離別に関わっている。―(昔人 黄鶴楼)(父母 蓼莪)
老後の達観。−(チョウチョウ、トンボ   曲江)

1)秋風の辞 漢武帝(前156―前87)
前漢 第7代の天子 在位54年 44才の詩作、その後、ベトナム、朝鮮を滅ぼし、巨大な帝国を築いた彼が詠んでいる。

「小壮幾時ぞ老ゆるを奈何(いかん)せん」

2)黄鶴楼 崔顕  (704-754)
 
「白雲千載空しく悠々
日暮郷関何れの処か是(これ)なる
煙波江上 人をして愁えしむ」

3)蜀相 杜甫 

「出師 未だ捷たざるに 身 先ず死し 
長(とこしなえ)に 英雄をして 涙 襟に満たしむ」
    
4)蓼雅 詩経(小雅)

「父無くんば 何をか恃(たの)まん
母無くんば 何をか恃まん」

5)天保九如 

「天 爾(なんじ)を保(やす)んじ 定む 以て興(さか)んならずと いうこと莫(な)けん」

6)曲江 杜甫 

「人生七十 古来 稀なり」

7)棄児行 

「去らんと欲して忍びず別離の悲しみ
橋畔(きょうはん) 忽ち驚く行人の語らい
残月一声 杜鵑(とけん)諦(な)く」


「漢詩の鑑賞と吟詠」志賀一朗 太修館書店 2001年1月。
これが、引用・参考文献である。

ここに紹介した詩のなかで、最後の「棄児行」だけが、この参考文献に掲載していない。

窪先生が、3月3日、最後に独吟されたのは、テープに入れていたから、何度も聞いた。

この詩については何も言えない。
先生が、どうして、この曲を選ばれたかは、わからない。

ひたすら 感慨無量である。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 12:23