794 明治の特攻隊 2012.8.26
8月だから、テレビでは、戦争回顧の番組が多かった。
たくさん、観たが、とくに、各地での特攻隊の話に惹かれた。
私の父の弟の一人は、昭和18年に応召して、サイパンへ行く輸送船が、沈められて戦死した。
出征直前の9月に、みんなで写真を撮ったことを覚えている。
私の母の弟の一人は、陸軍将校で、東京の参謀本部に勤めていたが、昭和19年秋に、妻と一人の男児を実家に送り返した。
最後は、マニラ防衛戦で、自らも爆弾を抱えて、戦車に体当たりした、と聞かされた。
もう一人の弟は、私が5才のとき半年ばかり、とりわけ面倒を見てもらったが、海軍航空隊で、沖縄で、特攻で消えた、と聞かされた。
二人しかいなかった男子を失った、日露戦争の近衛師団の騎兵であった祖父は、バカバカしいほど大きな石碑を建てて、ただ紙切れが帰ってきただけの二人の息子たちを葬った。
終戦当時、国民学校3年生だった私は、よく記憶している。
「乃木希典」大濱轍也 講談社学術文庫 2010年12月
この夏、熟読した本は、これだけだ。
必要に応じて、「坂の上の雲」「漱石日記」、内田百里痢嵶構臚場式」平泉澄の「物語日本史」、「日本史年表」、芥川龍之介の「将軍」などを、併読したから、時間がかかった。
この夏、悟ったことは、特別攻撃隊は、大東亜戦争の末期だけに行われたものではない、ということだ。
形は違うが、もっと古くから、もっと大規模に、行われていたのではないか。
それは、日露戦争から始まった。
それを、現場で、実行を命令したのは、乃木希典だった。
明治38年8月19日、第1回、旅順総攻撃、参加5万700人のうち死傷1万5800人。
明治38年10月26日、第2回、旅順総攻撃、死傷 3800人
明治38年11月26日、第3回 旅順総攻撃、6万4千人 死傷 1万7千人、合計 死傷 5万9千人 「物語日本史」
「坂の上の雲」によると、日本は、兵力10万人 死傷6万212人、死者 1万5400人。
ロシアは、兵力3万5000人、死傷1万2000人、死者 2-3000人。
旅順の奪取は特攻である。
人命の無視、これに比すべき戦闘は、我が国でも、それまでには無かったのではないか。
なかでも、白襷隊の「斬りこみ」は、まさに特攻である。
11月26日、中村少将以下 三千八十余名に命じた。
乃木希典は、「諸氏ガ一死君国ニ殉ズベキハ実ニ今日ニ在リ」と訓示をした。
白樺隊は壊滅した。
翌11月27日、乃木軍は、固執していた正面からの攻撃をあきらめ、203高地への攻撃に変えた。
12月5日、乃木の日記にある。「朝ヨリ、203砲撃、9時ヨリ斎藤支隊前進、目的ヲ達ス」
司馬遼太郎は、第3軍の司令官、乃木大将の無能を批判しているが、それ以上に伊地知少将に厳しい。
私は、今回、大濱徹也の「乃木希典」を読んで、この軍神は端倪すべからざる人物だと思った。
偉人として崇めるには、異様なことが多すぎる。
私には、到底、理解できない人物である。
内田百里痢嵶構臚場式」芥川龍之介の「将軍」、好い発見だった。
彼等の眼の確かさに、敬服する。