2012年04月29日

782 もう4月は逝く

782 もう4月は逝く 2012.4.29  

4月7日、夜、中学校の同級生から電話があった。
2年生、3年生の2年間を担任して頂いた恩師が亡くなられた、のだ、
4月9日の告別式には参列できた。

先生は、84才だった。
今にして思えば、わずか9年しか違っていない。
中学1年生までの7年間は、尊敬できる教師はいなかった。
初めての先生だった。
そして、いちばん長く、私を、指導してくれた先生だった。
最後は、2010年9月11日の同級会、翌日は三河松平郷を案内して頂いた。
次は今年の9月と予定が決まっていた。

今年の4月は、とりわけ、なにもしなくて、日々が過ぎて行った。
こういうことで好いのだろうか、と思わぬでもないが、これで好いのだろう。

いま、4月末、もう2週間も前から、庭先に置いてあるミカンの輪切りは、メジロが見向きもしない。
それまでの2カ月ほど、2羽のメジロとヒヨドリが毎日やってきて、ミカンを食べて行った。
自然の循環は正直で正確である。

私の部屋のすぐ前にあるスダジイの樹は、子供たちが木登りをして遊ぶので、幹がツルツルになってしまった。
公園の手入れをする人が、登りやすいように枝を伐ってしまったので、ほとんど葉も残っていない。
子供たちはますます楽しんでいる。

1週間ほど前は、男子中学生が4人、学校の帰りらしいが、公園の中を通って、この樹に登って行った。木のぼり仲間OBかもしれない。
あと、何年かで、このスダジイの樹は枯れてしまうだろうが、多くの子供たちを楽しませてくれた。

その隣にある楓は元気である。
うす緑色の葉が輝いて見える。
寒かった冬が、うそのように去って行った。
  

Posted by kinnyuuronnsawa at 17:21

2012年04月21日

781 4月の古い記憶

781 4月の古い記憶 2012.4.21  

4月18日の夜、NHKテレビで、「ドーリットル空襲」の報道があった。

それは1942年4月18日、70年前の事だが、私は覚えている。
幼稚園に入ったばかりで間もなく5才10ヶ月だった。
一家は、名古屋城の天守閣から2kmほど東の借家に住んでいた。
晴れた日の午後、明るい時間だったが、縁側に立っていたら、見慣れない飛行機が低空で飛んでいるのが見えた。
やがて、西の方、名古屋城の方角に黒煙があがり、爆発音が聞こえた。

これは、ジミー・ド−リットル中佐がB-25、16機を率いて空母ホーネットから出撃し、東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を爆撃して、中国東部へ去った、最初の日本空襲である。
死者50名、家屋262戸の被害があった。
こんなことは、あとで知ったことで、1944年から米軍による日本空襲が始まる2年以上前に、自分が米軍機による空襲を見たことは、敗戦後まで忘れていた。


さらに、あとで気が付けば、その翌年1943年4月18日に、山本五十六司令長官が戦死している。
国民学校へ入学して、軍神の写真を買わされたのを覚えている。
私は、連合艦隊司令長官(1943年4月18日戦死)と、隼戦闘機隊長(1942年5月2日 戦死)を買って、大切に持っていた。

国民学校の1年生の3学期、1944年2月頃だろうか、陸軍病院へ慰問に行った。学芸会で演じた同じものを幾つか病院で見せるのだ。

たくさんの傷病兵に驚き、最初は立ちすくんだ。
その翌年だったろうか、行軍の演習で猫ガ洞にあった陸軍墓地へ行った。
こんなに戦死者がいるのか、知らなかった。
のちに、1980年代に、イルクーツクの収容所で亡くなった人達の墓地を参拝したときも衝撃は大きかったが、整然と並んだ墓標には圧倒される。

年表を見たら、1941年4月16日、ハル国務長官と野村駐米大使との間で、日米交渉のたたき台(いわゆる日米了解案)が交換されている。

これが、近衛首相の勘違いや、松岡外相の短慮などにより、日米交渉決裂の引き金になってしまった。(ハル・ノートを書いた男 須藤眞志 文芸春秋)

1941年、42年、43年、4月の今頃は、後の日本を示している事が起こっている。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 10:49

2012年04月05日

780 爆弾低気圧

780 爆弾低気圧  2012.4.5  

鴨長明の「方丈記」から引用する。
「また、治承四年卯月のころ、中御門・京極のほどより、辻風起こりて、六条わたりまで吹けること侍りき。三四町を吹き巻くる間に籠れる家ども、大きなるも、小さきも、一つとして破れざるはなし。」
「辻風は常に吹くものなれど、かかる事やある、ただ事にあらず、さるべき、ものの諭しか、などぞ、うたがひ侍りし。」

「方丈記」が記述した5大災厄は、 安元の大火 治承の辻風 福原への遷都 養和の飢饉 元暦の地震である。
治承の辻風は、治承4年卯月29日、太陽暦では 1180年6月1日の災害。

今回、2012年4月3日の災害。
1)4月3日。前夜から、NHKは、明日は風雨が激しくなるから、外出はとりやめるように警告していた。
だが、午前中は暖かい花見日和で、風も穏やかだった。
午後2時頃、テレビを付けたら、すでに風雲急であることがわかった。
西の方から、日本列島を暴風雨が荒らし回っている。
選抜高校野球の優勝戦は、延期されている。
京都市内に雹が降り、雷鳴が轟いている。

NHKの報道体制は見事だった。
夜おそくまで、付け放しにしていた。
早くも、午後4時ごろの時点で、まとまったニュースが入って来た。
航空便 羽田から全国へ 625便が欠航 
船舶  東京湾から、房総、御前崎行きなど欠航 
首都圏 各路線の運休  新幹線 各地で運休 
停電  突風被害による怪我  絶え間なく報道されている。

午後から、帰宅を促した大企業、朝から行事を中止した政府機関。
東日本大震災の教訓は、役立っている、と思う。
さらに、昨年9月21日の台風のときの、帰宅時の混乱が苦い経験となっている。
(あのとき、湯島の聖堂は、漢文講座の休講を、前日までに、拙宅にも電話してくれていた。
ありがたかった。)

風は、ゴウゴウと鳴っている。
昼間より激しくなっている。
この家で、台風に備えたり、大雨の対策をした記憶は、私にはない。
その我が家でも、今日は、戸締りを確かめた。
懐中電灯と飲料水を置いた。
だから、今夜から明日にかけて、あまり心配はしていない。

2)4月4日。朝5時半起床、風は夜半までに収まり、陽が射している。
また、NHKの報道によれば、昨日からの風雨で全国の死者は4名、怪我人482名、建物の破損は2832件、軽微である。
ただ、今夜から明日にかけて、雨と風は、北陸、東北、北海道を襲う懸念はあるから、まだ油断は出来ない。

けれども、いま現在、私は喜んでいる。
あれだけの被害を受けた結果、災害に対する対応策が、明らかに進歩改善していると、私は思っている。

ただ、早くも「爆弾低気圧」という言葉が流行しそうである。
熱帯性低気圧、温帯性低気圧の他に、むかしから発生していた春の嵐のことである。文明の進化につれて春の嵐の被害が大きくなっている。

結局、日本も世界も安心できる季節は無いということなのか。

鴨長明が五大災厄を、あれだけ書いたのは、恐怖の結果だろう。
現代では、災厄の種類も規模も、鴨長明の知識で想像できるものより、はるかに、かけ離れている。

3)4月5日。東北、北海道方面も、大きな被害はなかったようだ。
春の嵐は、一つ過ぎ去った。

方丈記の5大災厄に戻る。

大火、辻風、遷都、飢饉、地震、このうち遷都をのぞくと、
「四大種の中に、水、火、風は常に害をなせど、大地に至りては、異なる変をなさず。
――― 月日重なり、年経にし後は、言葉に懸けて言ひ出づる人だになし。」

地震については、過ぎてしまうと、災厄の大きさを忘れてしまうと、嘆じている。

今回は、そうではないことを願いたいと、春の嵐を見送ったところである。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 08:51