2011年03月29日

701 過去の原発事故

701  過去の原発事故  2011.3.29 

インターネットで、過去の原発事故を調べてみた。
Wikipediaは、たいへん役に立った。

原発事故は、すでに、こんなに多く発生していたのだ。

主な原子力事故 
軍事以外  日本国外  
1957.9 ソ連、ウラル核惨事 
1957.10 英国、ウインズケール火災事故 
1961.1 米国、アイダホフオールズ  
1963.10 フランス サン、ローラン,デ、ゾー 
1966.10 米国 デトロイト 
1979.3 米国 スリーマイル島  
1986.4 ウクライナ チェルノブイリ 

沸騰水型原子炉の臨界事故  
1973.11 米国 バーモント 
1976.11 米国 コネテイカット  
1987.7 スエーデン オスカーシャム 

日本国内 INES(国際評価尺度)レベル2相当以上の事故 
1978.11.2 東電 福島第2、3号機 
1989.1.1 東電 福島第2、3号機 
1990.9.9 東電 福島第1、3号機 
1991.2.9 関電 美浜、2号機 
1991.4.4 中電 浜岡、3号機 
1997.3.11 動力炉・核燃料開発事業団、東海再処理施設 

1999.6.18 北陸電 志賀、1号機 

日本国内 INESレベル4相当以上 
1999.9.30 JCO核燃料加工施設 東海村   

日本国内 INESレベル5相当以上  
2011.3.11 東電 福島   3.18  レベル5と発表 

その他の有名な事故  
1973.3 美浜原発 燃料棒破損  
1974.9.1 原子力船むつ放射線もれ事故  
1995.12.8 動・燃 もんじゅナトリューム漏洩事故 
1998.2.22 福島第1 4号機 制御棒トラブル  
2004.8.9  美浜 3号機 2次系配管破損事故  
2007.7.16 新潟県中越沖地震に伴う東電 柏崎刈羽原発での事故。同発電所は全面停止。経産省は、この事故をレベル ゼロと評価。

主な軍事原子力事故 
旧ソ連 原子力潜水艦事故 21件  
米国 1963.4.10  スレッシャー号 129名死亡 
米国 1965.5.22  スコーピオン号 99名死亡  
フランス 1994.3.30 リュビ級原潜 10名死亡  

   このような、一覧表は見たことがなかった。
 書き出してみて、怒りを抑えられない思いである。
  

Posted by kinnyuuronnsawa at 09:15

2011年03月28日

700 西行と伊勢神宮

700  西行と伊勢神宮  2011.3.28  

古くなったが、3月5日に熱田神宮、3月6日に伊勢神宮を参拝した。
前回は、2008年の3月6日と7日だった。(当ブログ416、417)。

 熱田神宮の宝物館で、受付の人に、また剣のことを尋ねた。
すらすらと話してくれたが、あらましは、彼に薦められた2月21日発行の「歴史人 別冊」に忠実だった。

3月6日に伊勢神宮へ行った。  
外宮正殿前で、白装束の講中200―300名が、僧7-8名に従って法華経を唱えていた。東大阪市の大本山 某寺と書いたノボリを持っていた。
ここは神社ではないか。
なぜ、仏教徒が、こんなに堂々と隊伍を組んで参拝するのか

帰って、「明月記私抄」を読んだ。
堀田善衛は、西行に傾倒している。

「定家明月記私抄」正編 P72 から、要約、引用する。
文治2年(1186) 西行69才 定家25才 この年に、定家は「円位上人(西行)之を勧進ス」として、二見浦百首を詠んでいるが、主な歌人は、定家 家隆 寂連 隆信 祐盛 公衡 ほか、伊勢の四法師 など、いずれも、京 伊勢の錚々たるメンバーで、 西行という人物の動員力を物語っている。

伊勢神宮は、それまで神仏習合をきびしく拒絶し、僧徒の内外宮参詣を拒否してきた。西行は何でもないことのように、内外宮に参り
「さかきばに 心をかけむ ゆふしでて おもへば神も ほとけなりけり」
と詠んでいる。
それは思想的に驚天動地の大事件の筈であろう。

西行は、行基、増基についで、僧徒として3番目の神宮公式参拝を行った重源とは、高野山時代から親しかった。
重源上人一行700余人の内宮参詣の実現にも、西行は関与しているようである。
―――おもえば神もほとけなりけり ―――
伊勢大神宮も、もって瞑すべしと言うべきか。

3月6日、伊勢神宮への参詣者は、異様に多かった。
若い人の小グループや、家族連れが多く、老人がすくなかった。
内宮の前の階段は、1000人以上の人で埋まり、本殿には近ずけなかった。


後鳥羽院は、第80代、高倉天皇の第4皇子。
第81代 安徳天皇は、高倉天皇の第1皇子である。 

平家が、安徳天皇と神器を擁して西へ逃げたので、後鳥羽は、第82代として即位させられた。
3才であった。
二人の天皇が並び立った。
安徳が壇ノ浦に沈み、神器は、鏡と玉は残ったが、剣は失われた。

後鳥羽は、剣を受け継がなかった天皇としての、劣等感を強く持つ。
その負い目が、無茶苦茶な行動として現われたと、堀田善衛は考える。

神器は、その後、壇ノ浦から拾われたとか、本物は残っていたとか、さまざまな説があり、ウヤムヤになっている。

神器がなくても、伊勢神宮は荘厳である。 


平成25年には、第62回の式年遷宮を迎える。

伊勢神宮は、寺詣りに来る人も、みんな受け入れるから繁盛するのだろうか。

堀田善衛氏が言うとおり、西行の貢献は大きい。



  
Posted by kinnyuuronnsawa at 14:35

2011年03月27日

699 定家と後鳥羽院 

699  定家と後鳥羽院   2011.3.27

「うぐいすや賢(かしこ)過ぎたる軒の梅」     蕪村  
村上天皇(在位 946-966)に、庭の紅梅を召された紀貫之の女が
「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答えん」 拾遺集 と詠み移植を免ぜられた故事をふまえたもの。―― 蕪村俳句集 岩波文庫  
これは、おだやかな解決である。だから俳句にもなった。

 以下は、定家明月記私抄 続篇 P117以下による 
建暦三年(1213年) 正月の28日と29日の2日にわたって、検非違使の長、すなわち検察庁の長官が、突然おしのびで藤原定家の家へやってきて、庭の柳2本を掘り起こして持って行った。
後鳥羽上皇の宮殿の柳が枯れたから、勅命によって徴発したのだ。
定家は後鳥羽の専横に激怒したが、上皇と侍従という身分差だから忍従するしかなかった。

承久二年(1220年) 2月13日、後鳥羽上皇の第3皇子の順徳天皇が開いた歌会に定家は2首を寄せた。
 「さやかにもみるべき山はかすみつつ わが身の外も春の夜の月」 
 「道のべの野原の柳したもえぬ あわれ歎の煙くらべに」
――山はかすんで月もおぼろだが、私は疎外されて春の夜の外、野原の柳にも芽は出てきた、わが胸中と競いあうかのように ―― 

定家の歌は、下記の菅原道真の本歌2首をふまえたものだ。
「道のべの朽木の柳春来れば あわれ昔としのばれぞする」
「夕されば野にも山にも立つ煙 嘆よりこそ燃えまさりけれ」

後鳥羽上皇は、息子の歌会には出なかったが、定家の歌は知った。
とくに2首目に激怒した。「オノレ、定家メ、7年前に柳ヲ取ッテ行ッタノヲ、未ダニ恨ミニ思ッテ居ルノカ」というわけだ。
定家は、勅勘を受ける、つまり追放処分、従3位は罷免されないが、閉門扱いとなり、歌人としての公式会合への出席を禁じられた。

これが、定家に幸いする。
翌1221年、承久の乱がおこるが、定家はお咎めなし。
後鳥羽を始め、1天皇、3上皇は配流される。

その後、定家は、昇進を重ね1227年、66才で正2位に叙せられる。
明月記には、「正2位は人臣の極位ナリ」と、よろこんでいる。
「乱世ニ逢ハザレバ、イササカ之ニ除センヤ」とも書いている。

堀田は、定家は存外に正直だとして、承久の乱がなくて後鳥羽院が、まだ生きていたら、こうした栄達はなかただろうと、書いている。

明月記は、藤原定家と後鳥羽院という、おたがいに対照的だが共通点もある巨人の共感と葛藤の物語である。
こうした視点は、語りつくされているから、深入りせずに置きたい。

剛の権化のような後鳥羽院と、病身で、ぐちっぽくて、幼時から老成していた藤原定家の対比の妙。
ここでは、柔よく剛の自滅を見て、79才の長寿を楽しみ、冷泉家の礎を築いたことに、感服するのみである。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 14:23

2011年03月26日

698 藤原定家と大災厄  

698 藤原定家と大災厄  2011.3.26 

「定家明月記私抄」堀田善衛 正、続篇を、図書館で見つけて、読み終えた。
地震が起こる数日前のことである。―― 新潮社、ちくま学術文庫。

堀田善衛は、あの戦争中に、「明月記」を入手した。
そこに、19才の藤原定家(1162-1241)が書いた言葉に愕然とする。
「世上乱逆追討耳ニ満ツと雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ。」
――紅旗(朝廷)が、戎(源氏)を討つ噂は、うるさいが、いちいち書かない。
俺の知ったことではない、―― 1180年に書き始めた明月記の冒頭  

いつ戦場に駆り出されるかもしれない不安におびえていた堀田(1918-1998)は当時、定家より年齢は数年上の青年であった。
外国語も出来たので、内外の情勢に強い関心を持っていた。
だから、「紅旗征戎我ガ事ニ非ズ」に違和観を持ったのだろう。

ほぼ同じ時代(1212)に書き終えた「方丈記」では、五大災厄が、リアルに記述されている。
安元の大火1177、治承の辻風1180、福原への遷都1180、養和の飢饉1181、元歴の地震、1185、である。――  「方丈記」講談社学術文庫。

3月11日以来、元歴大地震の引用はマスコミで散見される。
「世ノ常 驚クホドノ地震、二、三十度フラヌ日ハナシ。
十日、廿日過ギニシカバ、ヤウヤウ間遠ニナリテ、
或ハ、四、五度、二、三度、モシハ一日マゼ、二,三日ニ一度ナド、
大方、ソノ名残、三月バカリヤ侍リケム。」

吉田兼好(1283−1350)の「徒然草」には、戦乱、災害などの記述はない。
蒙古襲来、南北朝の動乱の時代であったのに、超然としていた。

堀田は書いている。続編164p。
―天下騒乱の大事にいたると、この日記は、はたと欠けてしまう ―

「承久3年5月21日、白旄(はくばう)風ニ翻リ、霜刃日ニ輝ク、微臣ノ如キ者、紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ、」
ここに「吾が事に非ズ」が再出する。
このとき定家 60才。

承久の乱の勃発である。
定家は、後鳥羽上皇の勅勘を受けており、おかげで、鎌倉軍による処分を免れた。

なお、初出の定家の「吾ガ事ニアラズ」は、19才で書いたのではなく、70才前後での加筆修正だという、辻彦三郎氏の説がある。
堀田は、それを紹介しつつも、判断は避けている。

19才で書こうと、60才で書こうと構わない、定家の執筆姿勢は一貫している。
というのは、定家は、明月記において、和歌や有職古実だけでなく、俗事を克明にとりあげている。自身が見聞きしたことだけでなく、多くの人々からゴシップを聞き集めている。自身や一族の人事、訴訟、冷泉家のやりくりなど、すべて詳しい。

だが、天下の大事になると、筆を置いている。

現在,現場,現実に帰れば、3月11日、午後2時46分以来、半月が過ぎた。
いまだに、これから、どころか、現状すら判らない。
すべての情報は、テレビか、新聞か、インターネットか、メイルによってである。
伝えられる、あるいは、入手できる情報量は膨大な量である。
だが、よくわからない。何もわからない。

藤原定家は、「紅旗征戎吾ガ事ニアラズ」と記して、逃避した。
吉田兼好は、蒙古襲来も、南北朝の動乱も、徒然草243回のうち1回も書かなかった。その理由はわかるような気がする。

あまりにも大きな災厄であり、政変であり、社会変動だから、取り上げられなかったのではないだろうか。
情報収集、理解、展望、いずれも不可能だったに違いない。

残念ながら、今日現在の私も同様である。  
Posted by kinnyuuronnsawa at 20:18

2011年03月21日

697 春よ 早く来い 

697 春よ、早く来い 2011.3.21  

島崎藤村の詩に「春」という詩がある。
五章で110行という長歌だが、その第三章を短縮して書き写す。   
いま、声を出して読んでみたい詩である。

   春は来ぬ  
春はきぬ 春はきぬ 
初音やさしきうぐいすよ こぞに別離(わかれ)を告げよかし  
谷間に残る白雪よ 葬りかくせ去歳(こぞ)の冬  

春はきぬ 春はきぬ  
さみしくさむくことばなく まづしくくらくひかりなく  
みにくゝおもくちからなく かなしき冬よ行きねかし  

春はきぬ 春はきぬ  
浅みどりなる新草(にひぐさ)よ とほき野面(もせ)を画けかし  
さきては紅き春花よ 樹々の梢を染めよかし  

春はきぬ 春はきぬ  
霞よ雲よ動(ゆる)ぎいで 氷れる空をあたためよ  
花の香おくる春風よ 眠れる山を吹きさませ  

春はきぬ 春はきぬ  
春をよせくる朝汐よ 葦の枯葉を洗い去れ  
霞に酔へる雛鶴よ 若きあしたの空に飛べ  

春はきぬ 春はきぬ  
うれひの芹の根を絶えて 氷れるなみだ今いづこ  
つもれる雪の消えうせて けふの若葉と萌えよかし 
 

    冬よ早く去れ   

さみしく さむく ことばなく
まづしく くらく ひかりなく
みにくゝ おもく ちからなく
かなしき冬よ 行きねかし
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:21

2011年03月19日

696 三月の詩  

696  三月の詩  2011.3.19 

 「少年の日」  佐藤春夫 1892−1964  
野ゆき山ゆき海邊ゆき/真ひるの丘べ花を籍き/
つぶら瞳の君ゆゑに/うれひは青し空よりも。

陰おほき林をたどり/夢ふかきみ瞳を戀ひ/なやましき真晝の丘べ/
さしぐまる、赤き花にも。

君が瞳はつぶらにて/君が心は知りがたし。
君をはなれて唯ひとり/月夜の海に石を投ぐ。

君は夜な夜な毛絲あむ/銀の編み棒にあむ絲は/
かぐろなる絲あかき絲/そのラムプ敷き誰がものぞ。 

   「犬吠岬旅情の歌」 
ここに来て/をみなにならひ/名も知らぬ草花をつむ。
みずからの影踏むわれは/仰がねば/燈臺の高きを知らず。
波のうねうね/ふる里のそれには如(し)かず。
ただ思ふ/荒磯に生ひて松のいろ/錆びて黝(くろ)きを。
わがこころ/錆びて黝(くろ)きを。

佐藤春夫の「犬吠岬旅情の歌」を読んだら、島崎藤村(1872−1942)の「千曲川旅情の歌」を連想する人は多いだろう。
「少年の日」からも、藤村の「初恋」を連想する。

佐藤春夫少年の、其の後も連想する。

「わがはたち」  佐藤春夫 
まなびやのふみうりはらひ
国禁のふみよみふけり
さけたうべうたあげつらい
なみだするはひとのしらぬま

和歌では、本歌さがしが盛んだが、和漢の詩でも、影響を受けたと思われる、別の詩を連想するのは楽しいことである。

その極致に出会った。
「定家明月記私抄」堀田善衛   新潮社 82P  

霜冴ゆるあしたの原のふゆがれに一花さける大和撫子  藤原定家 

君あしたに去ぬゆふべの心千々に
何ぞはるかなる 
君をおもふて岡のべに行きつ遊ぶ 
岡のべ何ぞかく悲しき  
たんぽぽの黄になづなの白う咲きたる  
見る人ぞなき                蕪村  

   秋くさ  
さまよひくれば秋くさの 
一つのこりて咲きにけり 
おもかげ見えてなつかしく 
手折ればくるし、花ちりぬ        佐藤春夫    

藤原定家から与謝蕪村へ佐藤春夫へと、時間と空間を超えて、発想をひろげられる、堀田善衛氏の能力と知識の蓄積に、途方にくれてしまう。

「若き日の詩人たちの肖像」の主人公の成長の姿である。


  
Posted by kinnyuuronnsawa at 21:14

2011年03月13日

695 菅、挽回を逸機 

695 菅,挽回を逸機  2011.3.13

3月11日の午後は自室に居た。
大きな揺れが3回あり、立っているのが難しいぐらいだった。
それ以来、ずうっと、テレビを見ている。
NHKが、通常番組を止めて、報道に特化したのに、民法も追随した。

素人ばかりの民主党内閣は、これまで、よくやってきたと思っていた。
菅首相をはじめ、すべての閣僚も、要職にいる民主党員も、何も経験がない、何も知らない状況での、この危機である。
これからのことは予想ができないが、いまのところ適切に対応していると思う。
これを乗り切ったら、国民の支持率は上昇し、菅内閣は一転して、蘇るのではないかと思っていた。

その期待が、今日の午後に、消えた。
官房長官が、記者会見で、レンボウ氏と、ツジモト氏の、何やら災害復旧の要職就任を発表したのだ。

私は、今回、民主・自民が、日常の政争を中断して、国を挙げて非常事態に対処することを期待していた。
それを待っていたから、よくテレビを見ていた。

災害対策特別委員長に、自民党の谷垣総裁を起用するとか、経験のある自民党の官僚経験者を、レンボウや、ツジモトでなく、この緊急事態に働いてもらうことを、なぜ考えなかったのだろう。

すぐに、やって欲しいのは、いちはやく支援を表明した各国に対して、我が国の状況を説明して、御礼を述べる特使を派遣して欲しい。
それだけでも、不当な円安は防止できる。
おそくとも、次のG20に派遣すべきだ。

このほか、いまの非常事態に使えるのは自民党議員か、それに従って来た官僚しかいないだろう。

私は、今は、がっかりしている。
所詮、民主党は、菅内閣は、器の小さい者の雑多な集団であったのだろうか。

おなじく、好機を逸した自民党にも、失望している。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 21:20

2011年03月10日

694 私家版、「諷詠十二月」

694 私家版、「諷詠十二月」  2011.3.10

三好達治に「諷詠十二月」というロングセラーがある。
昭和17年が初版だが、敗戦後、7,8月分を差し替えて、昭和27年に新潮文庫で発行された。
いまでも新本で入手できる。

こういうものを、自分なりに整理したいと思って、ブログに書き始めた。
まる1年が過ぎたので、まとめてみた。
なかなか、楽しい。
経済・金融ネタでなくて、こんなものなら、まだ、数年は続けられそうだ。

4月  室生犀星  菜種の畑に  寂しき春

5月  萩原朔太郎  旅上  
    丸山薫  汽車に乗って 
6月  井上靖  六月  雨あがり  友  
  
7月  伊東静雄  七月二日・初蝉  なれとわれ    
    丸山薫  練習船 
    佐藤惣之助  船乗りの母  
8月  山村暮鳥  雲   
    谷川鴈  雲よ  
9月  立原道造  落葉林で  また落葉林で  
    ヘルマン・ヘッセ  白き雲  九月  軽い雲 
10月  三好達治  乳母車  鴎どり 
     
11月  八木重吉  秋の空    
    田中克己  古驛   
    川路柳虹  夜雨  
12月  高村光太郎  冬が来た  道程   
    陳子昂  登幽州臺  
1月  尾崎喜八  雪  音楽的な夜  
     
2月  伊藤整  雪明かりの人  吹雪の街を  
     
3月  佐藤春夫  少年の日  犬吠岬旅情のうた  
     
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 22:51