676 ONCE ONLY ONCE 2010.12.25
名古屋大学陸上競技部 部史が発行された。
12月10日発行は第二分冊で、戦後 昭和20年からの記録である。
OB会長の高田和之氏が編集長として、没頭された。
第1部は、7月16日に発行されており、戦前、の記録である。
水谷伸冶郎氏が、たいへんな労力を割いて編集された。
長い歴史を誇る我が陸上競技部だが、他の大学と違って部歌、応援歌の類は無かった。
作ろうという、高田和之会長の熱意に応じて、今年の夏、不肖が作詞して、応援歌ができた。
部史のいちばん最後に楽譜とともに掲載されている。
作詞のいきさつも書かせて頂いた。
ここに、母校への誇りを持って、紹介させていただきたい。
(1)HOME COMING
2010年7月30日、七大戦の前夜祭に先立って、名古屋大学東山キャンパスを、つぶさに参観できた。
1959年3月に経済学部を卒業した私は、ここに通うことは出来なかった。
学部は桜山、グランドは滝子、合宿は八事だった。
ここへは2―30年以上前に、ちょっと来ただけである。
まず東山の敷地の広さに驚いた。
構内を大きな車道が通り、地下鉄の駅がある。
ここには、医学部を除く全学部が集中している。
ほかの旧七帝大で、そういうところがあるだろうか、私は知らない。
しかも在学生の数は、七大学で最少だという。恵まれている。
今や、樹木が大きくなっていて景観は美しい。
とくに豊田講堂の東の一帯は、豊かな森に育っており、その端にアンツーカーを張った陸上競技場がある。
当日は、七大戦のオープン競技が瑞穂で行われており、誰もいなかったが、素晴らしい設備だ。
折からの夕立ちで、雨やどりをしていたが、グランドの周囲から降ってくる蝉しぐれも好かった。
陸上競技部長・兼・理学部長の国枝さんの案内で、野依、益川、小林、下村先生の研究の事跡と、現在の活動を説明していただいた。
広報誌 「理」の既刊18冊すべてを頂いて帰った。
百聞は一見に如かず、この名古屋大学に居たことを誇りに思った。
そして、これからも、この大学の各方面での活躍を、同窓生として喜べることを有難いと思う。
一度だけの学生生活、ここが好かったのだ。
翌日の7大戦、わたしは、この11年間に10回 応援を楽しませてもらった。
やはり瑞穂がなつかしい。真夏のギラギラは、青春の思い出だ。
興奮して観戦しながら、ONCE ONLY ONCE と何度もつぶやいていた、
あのころ、そうしていたように。
帰りの新幹線のなかで、陸上競技部応援歌の作詩にとりかかった。
すぐに、書いた言葉は、ONCE ONLY ONCEだった。
歌詞は、一番しか出来なくて、まもなく眠ってしまった。
名古屋駅近くでの、OB会の祝杯が、よく利いてきたのだ。
(2)SCHOOL SONG
旧制八高の寮歌で「人うつり」という絶唱がある。
1959年4月に名大新制7回を卒業した私も、この歌は好きで、よく歌った。
「人うつり」 寺田守 作歌 豊川尚佐 作曲 1935年
(1)ひとうつり はなあせて (3)思想の実 にがくこそ
ながれゆく すがたかな 理想とや 虚無のごと
宿命(すくめい)は 友義のまこと 茫々と 故人のうれへ
観照は 愛者のちぎり 名さえなき 民族(たみ)の滅びに
濁り酒 汲めど酔はずや 立ちすくむ 罪のおののき
歌は、5番まであり、最初に、トルストイを引用した前書きのセリフがある。
「伊吹おろし」よりも、荘重である。
この寺田守氏は、1932年、八高2年生のとき、寮歌「月影むせぶ」を作詩した。
これも名詩である。
卒業して、1935年、東大文学部2年のとき、八高へ「人うつり」を寄贈したのだ。
東大卒業後、名古屋の高等女学校、沼津中学、海軍兵学校の教員を経て、1945年7月 2度目の召集を受けて敗戦を迎えた。
1946年4月に文芸誌「黄蜂」が東京で創刊され、その編集長をつとめられた。
雑誌は3年、5号で終わったが、執筆者は豪華であった。
横田喜三郎、中村哲、久松潜一、野間宏、大河内一男、杉森久英、丸山真男、加藤周一、武者小路実篤、伊丹万作 などが名を列ねている。
寺田守氏は、東大卒業後の勤務地は、名古屋、沼津、江田島、三河などであったが、中央の文壇との交流は深かったようだ。
途中の経歴を省略するが、寺田守氏は1947年10月、愛知県立擧母中学校の講師に着任した。
1950年、11月28日、肺結核のため、逝去されるまでであった。
わたしは、この擧母中学校の後身の新制 擧母高校を1955年3月に卒業した。
擧母高校の校歌は、大木淳夫作詩、清水修 作曲で、1950年12月8日の制定である。
大木淳夫への仲介は、寺田守先生が行ったと思われる。
(3)ONCE ONLY ONCE
1999年9月 「寺田守先生 追想集」 が発行された。
鈴木五平氏という人が、旧制擧母中学校の第4回生(1948年3月卒業)で、編集後記を書いておられる。
おなじ第4回生の加藤勝氏の回想を読んで、私は眼を見張った。
1947年10月に着任された寺田先生に生徒たちは心服していた。
「卒業間際のある日、授業の終わりにあたって、先生が黒板に書かれた英語の3文字は、今も鮮明に脳裏に蘇り、その後の人生の座右の銘として生き続けている。
ONCE ONLY ONCE」
寺田守先生が、黒板に書いたというのだ、ONCE ONLY ONCE と。
わたしは、この回想録を読んだ1999年より、ずっと前から、この言葉を知っていた。座右の銘にしていた。高校生のころ、つまり1954-5年頃、誰かから聞いて知っていたのだ。この言葉の由来は知らなかった。
いまから数年か10年前だろうか、テレビで古い映画の再放送を見ていた。
「青い山脈」だったろうか、男性教師が、ONCE ONLY ONCE と教室の黒板に書いたのだ。そうか、寺田守氏は、この映画を見ていたのだな、と思った。
長年この言葉の出典や、背景を調べてはいたが、熱意が足りなかった。
最近、7月あたりから、やや真剣になった。
まず、今井正監督の「青い山脈」が封切られたのは、1949年7月だと判った。
先生が、黒板に書かれたのは、追悼記によると、1948年3月のようだ。
だから、映画で知ったのではない。
ただし、小説は1947年6-9月に朝日新聞に連載され、12月に新潮社から出版されている。先生は、小説を読まれて知った可能性はある。
「青い山脈」の初版を入手しようと、試みていたが、その必要がなくなった。
もっと、大きなことを発見したのである。
「寺田守先生追悼集」1999年10月 追悼集刊行委員会
(4)ONE WORD MORE
8月になって、重要なことが分かった。
この言葉は、ロバート・ブラウニングの詩集にあった。
ロバート・ブラウニング (1812-1889)は、「ピパの歌」で有名である。
上田敏の訳 「時は春 日は朝(あした)――すべて世はこともなし」を知らない人は少ない。
彼は 1846年、6才年長の エリザベス・バレット(1806-1861)と結婚した。
当時、彼女は詩人として、ブラウニングより有名だった。
父親は、結婚に反対で、二人はフイレンツエで暮らす。
1855年 50篇の長い詩を書き「男と女」と題して、妻にささげた。
その巻末に、「いま一言」という詩がある。
Men and Women 男と女
Robert Browning 大庭千尋 訳 1988.10 国文社
50の詩は、難解だが、「いま一言」はよくわかる。
彼の、妻への想いが、強烈に、独特のロジックで表現されている。
妻は 数年後1861年に死去した。
ロバートは、イギリスに帰り、1889年に亡くなるまで活躍した。
ONE WORD MORE― TO E.B.B with notes
E,B,B=エリザベス・バレット・ブラウニング
ながい詩だが、第8章だけを引用する。
What of Rafael`s sonnets, Dante`s picture?
This; no artist lives and loves, that longs not
Once, and only once, and for one only,
(Ah, the prize!) to find his love a language
Fit and fair and simple and sufficient--
Using nature that`s an art to others,
Not, this one time, art that`s turned his nature.
Ay, of all the artists living, loving,
None but would forego his proper dowry--
Does he paint? He fain would write poem—
Does he write? He fain would paint a picture,
Put to proof art alien to the artist`s,
Once, and only once, and for one only,
So to be the man and leave the artist,
Gain the man`s joy, miss the artist`s sorrow.
大意は、こうである。 拙訳
これまで書いてきた、ラフアエロの詩とダンテの絵とはどんな意味か?
どんな芸術家も、生きて、愛すれば、することがある。
一度、ただ一度、ただ一人のために。
自己の専門性を棄て、他人の分野で、適切な、きれいな、単純な、十分な表現で、恋人に語りかけようと、望まぬものはない。
生き、愛する芸術家なら誰だって、天賦の技術を棄てることがある。
画家ならば、喜んで詩を書くだろう。
詩人ならば、喜んで絵を書くだろう。
一度、ただ一度、ただ一人のため、本職ではなく余技を試さぬものはない。
そこで芸術家を止めて人間となる。
芸術家の悲哀を忘れ、人間としての喜びを得る。
ONCE AND ONLY ONCE の次は、AND FOR ONE ONLY だったのだ。
ロバートにとっては、もちろん エリザベスだ。
ただし、ロバートは、妻のために、詩以外のものを書いたのではない、詩を、それまでとは違う構成や表現方法で書いたのだ。
(5)FOR WHOM?
いまとなっては、寺田守先生が、「青い山脈」を見ていたか、ブラウニングを読んでいたか、調べることは、難しい。それは、もう、どうでもよい。
私は、いま、ロバート・ブラウニングが、この言葉を、じつに見事に使ったことに感激している。
ONCE AND ONLY ONCE AND FOR ONE ONLY
8月の七大戦のあとに私が書いた、名古屋大学陸上競技部応援歌は、ONCE ONLY ONCEで終わっている。
これは、言葉を正確に書くなら、ONCE ONLY ONCE FOR US である。
ONCE ONLY ONCE の先は、あっても、なくてもよい。
FOR ME でも、YOUでも、HIMでも、HERでもいい。
FOR ONLY ONE でなくてもいい。
応援歌は、みなさんが、好きなように考えて、改作してください。
わたしが、「隗」の役割を果たせれば、と思って書いてみました。
2010.8.23
名古屋大学陸上競技部 応援歌
ONCE ONLY ONCE
作詞 青山浩一郎 作曲 戸田志香 編曲 伊地知元子
(1)ここは名古屋の東山
われらを見ている 青い空
跳べ 投げろ 走りぬけ
ONCE ONLY ONCE われらが青春
(2)ここは瑞穂のアンツーカー
われらの風を巻き起こせ
投げろ 走れ 跳びあがれ
ONCE ONLY ONCE われらが此の日
(3)ここは伊勢へと続く道
われらを迎えよ 伊吹おろし
走れ 跳べ 投げつくせ
ONCE ONLY ONCE われらが未来
2010 8 15