2010年05月30日

633 鶴よ、オー 鶴よ

633 鶴よ、オー 鶴よ  2010.5.30

はじめて、プライベートなことを書く。

私は、姉一人、5人兄弟の長男である。
次弟は49才、末弟は59才で死んでしまった。

次弟は、大学で合唱をやっていた。
末弟はフオーク・ギターを弾いていた。
門外漢の私が、多少なりとも歌うことに接したのは、若くして逝った、二人の弟たちの、おかげである。

5月25日は、次弟の命日であった。
それに先立って23回忌の法要が、5月8日に行われた。
次弟は縁戚である、その寺に2年間、下宿させてもらっていた。

すべてが終わったあと、もう一度、墓の前に行って、私たちは歌った。
死んだ次弟のつれあい、その子供たちと、私と、三男である私の弟など、だ。

ロシア歌曲、「鶴」である。
死んだ次男のつれあいは、同じ合唱団にいた。
いまもOBたちが続けているのに参加している。
7名の合唱は、2回目には、歌らしくなった。静かに歌った。

    鶴    N.ゴッフ 詞 中村五郎 訳 フレンケル 曲
  空をとぶ鶴の群れの中に
  あなたは、きっといる
  きっと、このわたしを待っている
    はげしい戦いの日も
    空に群れてとぶ
    美しい鶴の群れ
    あなたはそこにいる

  いくさにいのち捨てても
  死んではいない あなたは
  きっといる きっと生きている
  この私をまっている
    はげしい戦いの日も
    空に群れてとぶ
    美しい鶴の群れ
    あなたはそこにいる

家に帰り、自分の部屋で、白樺合唱団のCDで「鶴」を静かに聞いた。
  

Posted by kinnyuuronnsawa at 21:02

2010年05月26日

632 朝鮮半島の悲哀

632  朝鮮半島の悲哀   2010.5.25

5月24日に発表された重大なニュースがある。

韓国は、自国の「哨戒船が北朝鮮の魚雷攻撃で沈没したと結論付けた調査報告を踏まえ、国民向け談話を発表した」
詳細は、今朝の朝刊に出ている。

このさき、どうなるかは、私には解らない。
日本にとっても、危機である。

昨日、「山河哀号」とい小説を一気に読んだ。
若いころから、日本と朝鮮との関係に興味があり、いろんな本を買ったり、借りたりして、読んでいた。
この本は、麗羅というペンネームの、慶尚南道生まれの人が書いたもので、1979年、集英社の出版だ。
一昨日、自宅の本棚の奥で発見したものだ。

本欄 629回で書いた「三国遺事」倭人伝の英雄である「堤上」のことが、この小説のクライマックスに使われている。
在日朝鮮人学生も学徒出陣に志願させた。
その壮行会が明治大学講堂で開かれた。
朝鮮の著名な作家が壮行の辞をのべた。
「愛する後輩諸君よ、汚れた朝鮮民族という名にしがみついて汚辱の生存を送るよりも、栄光ある大日本皇民の名のもとに死すべきである」
これを聴いて、この小説の主役である、東京大学2年の朝鮮人学生が立ち上がった。「先生も堤上の古事を御存じでしょう」
(ここで、現代語での長い引用がある)
朝鮮民族の一人として死ぬことこそ光栄であり、日本人の一人として生かしてもらいたくはない」

この発言で、彼は、拷問のうえ10年間の禁固刑を科せられる。

朝鮮半島の悲劇、その背景に、いくつかの対立がある。
(1)1945年までの日本と朝鮮
(2)1945年以降の南北切断
(3)日本統治時代の知日派・抗日派
(4)身分制度、
(5)地域抗争

小説「山河哀号」は、これらを全て描きだしており、朝鮮半島の悲劇の根の深さをわからせてくれる。

6月25日は、朝鮮戦争勃発から60年、歴史は短くて、長い。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 14:59

2010年05月22日

631 雨の中の薪能

631 雨の中の薪能   2010.5.22

5月20日、深大寺での薪能を観に行った。
朝から、小雨が降っていたので、本堂内での参観だとは思っていた。
それでも、午後になると雨はやんで、深大寺界隈の新緑は見事であった。

今夜は、本堂の内陣、左右、各120−130人の椅子席がある。
それ以外の人は、例年のように庭から、テントの中から観る。
6時 開演した。

発見をした。声が実に、よく聞こえる。
ウタの部分も、セリフの部分も、明確に聞こえる。台本は必要でない。
私は、最近、日本語古文のヒヤリングに失望していた。
歌舞伎座の天井桟敷で、唄もセリフも、よく解らなかった。
それは、聞く場所の問題なのか。
この、本堂内陣で聴く薪能は、同じ平面である、室内だから音響効果もよい、演者に近い からなのか、実に聞きやすい。
あらためて、人の声というものは、何と美しいものか、と感嘆した。

来るまでの電車の中で、平家物語を読んだ。
今日の出し物は、「千手」だから、平重衡の、生捕り、海道下り、「千手」の前、斬られ、などを、読んだのだ。
平家物語は、この凡将に紙幅を過分に割いている。
意外であった。平家物語が今までになく、すらすら読める。

いつの間にか、自分の耳と眼が変わってしまっていた。
なぜだろうか。
考えてみたいが、これは後にする。

午後7時ごろ、少し前から雨が降っていたのは知っていた。
重衡を見送る「千手」が、舞う。地謡が長く続く。
このクライマックスの最中、雷鳴が轟いた。
またとない伴奏ではないか。

私は、いちばん後ろに座っていたので、シテ、ツレ、ワキの姿は、見えなかった。
ただ、この3者と、謡い手の声を聴いただけだ。
それが、実に好かった。
謡曲は、まさに謡いなのだ。

観るより先に、聞くことがあるのだろうと、勝手に悟って、雨が、あがった新緑の中を、満足して帰った。

シダックス(株)が献呈している、この薪能、来年は第20回を迎えるという。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 21:43

2010年05月20日

630 埋却という大事業

630 埋却という大事業  2010.5.20

このところ、浮世ばなれの事ばかり書いてきたが、きびしい現実社会も気になっている。
わからないのは、口蹄疫問題だ。

1)20日の日経1面には「口蹄疫処分30万頭、政府、対策費300-400億円に」と見出しが大きい。
読んでみると、対象は半径10km以内の牛は約5万頭、豚が約15万5千頭、これをワクチン接種後、殺処分する。
畜産農家には、牛 60万円、豚 3万5千円の奨励金を支給する。」とある。
どうして30万頭なのか、処分済みを加えたのだろうが、今までに、そんなに大量の処分が終わったのだろうか。

なぜ、3-400億円なのか。
奨励金の単価は、普通に出荷した価格と、どう違うのか。(家畜伝染病予防法では評価額の4分の3を払う規定。日経3面)
この3-400億円は、どういう予算から支出されるのか、などだ。

テレビでも、いろんなことを言っている。人間には感染しない、肉は食べてもかまわないなど。それなら、もっと違う処分方法はないのか。

2)「埋却」という言葉を、はじめて知った。
20日 日経朝刊の35面
「殺処分は通常、家畜1頭1頭に薬物を注射し、その後、地中の穴に入れ、土と消毒用の消石灰で埋却する」「埋却には家畜2千頭あたりで約1万平方mの土地が必要とされる。」
「今後、国と宮崎県は、国有林や県立農業大学校の土地を提供する考えだ」

牛、5万頭、豚、15万5千頭、どれくらいの重量、体積になるか想像もつかない。
これだけ大量な物を埋める穴を掘るのは、容易なことではない。

大切なことは、埋めたあとだ。
後世の人は、何かの機会に、その場所を掘り返して、驚嘆するに違いない。
後世でなくても50年もすれば、掘り返されるケースは、予想される。
なぜ、ここに埋めたのかを、明記したものを、併せて埋めておかねばならない。
それは、木簡ではダメだ。

原発廃棄物の処理場を見に行ったことがある。
発電所で使った床をふいた雑巾さえ、ドラム缶に入れて、密封し厚い鉄で囲まれた小部屋にいれて、地下30mに埋めていた。
今は、どうなっているのだろう。

廃棄物は日常の処理も大変だが、事故がおきたら、大量の廃棄物が一気に発生して、被害は計りしれない。

盟友、米国は、メキシコ沖で苦しんでいる。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 10:40

2010年05月18日

629 朝鮮半島・日本列島

629 朝鮮半島・日本列島  2010.5.18

節目に当たる年だからと、NHKは、「朝鮮と日本」という特集番組を、昨年から放映している。
私は熱心に見ているが失望している。
女流タレントの出演は要らない、学者同士のまともな討論を聞きたい。
ただ、朝鮮の遺跡や、文物など、始めて見る映像は楽しみである。

日朝関係には前から興味があった。
数十冊の本は、いつも机から近い本棚に平積みにしてある。
その山の中に、自分が筆写したものを見つけた。
大判の400字詰め原稿用紙4枚である。
もとは青色だったが、薄い灰色になって、いまや消えそうだから、少なくとも10数年以上前に書いたものだ。

私は、そこに書かれている、「堤上」という英雄が大好きだ。
日本書紀にも記載がある。実在の人物だと思う。
彼のことは、もっと書かれてよい。
大きな小説が組み立てられる素材である。
なぜ、誰も試みなかったのだろう。
以下に、かつて筆写したものを、ここに再録しておく。

   「三国遺事」倭人伝 

第17那密王の即位36年庚寅、倭王、使を遣わす。来朝して曰く。寡君は、大王の神聖なることを聞きて、倭臣等をして、以て百済の罪を大王に告げしむ也。願わくは、大王、1王子を遣わして、誠心を寡君に表したまえと。

是に於いて、王、第3子美海を使(し)て、以って倭を聘(と)わしむ。美海、年十歳。言辞と動止とは猶(な)お未だ備具せざりき。故に内臣朴娑覧(ぼくさらん)を以って副使と為して之に遣わす。

倭王、留めて送らざること三十年なり。

10年乙丑に至り、王、群臣及び国中の豪侠を召集して、親(みずか)ら御宴を賜う。酒を進むること三行(さんこう)、衆(もろもろ)の楽、初めて作(おこ)る。王、垂悌(すいてい)して群臣に謂(かた)りて曰く。昔、我が聖孝、民事に誠心せり。故に愛子を使(し)して東のかた倭を聘わしめ、見(まみ)えずして崩ずと。

王、既に宝海を見て、益々美海を思う。1たびは欣(よろこ)び、1たびは悲しむ。垂涙(すいるい)して左右に謂(かた)りて曰く。身に1臂(いっぴ)有り。1面に1眼の如く、1を得ると雖も、而れども1を亡(うしな)う。何ぞ敢えて痛まざらんやと。時に堤上、此の言を聞き、再拝して朝を辞して馬に騎(の)り、家に入らずして行(すす)み、直(ただ)に栗浦(りっぱ)の浜に至れり。其の妻、之を聞きて、馬を走らせて追いて栗浦に至る。其の夫を見るに已に舡上(こうじょう)に在り。妻、之を呼ぶこと切懇なり。
堤上、但(ただ)手を揺(ゆ)らして駐(とど)めずして、行きて倭国に至る。

詐言(さげん)して曰く。雞林(けいりん)の王、罪せざるに我が父兄を殺すを以って、故に逃げ来りて此に至ると。倭王、之を信じて。室家(しっか)を賜いて之を安んず。

時に堤上、常に美海を陪(とも)ないて海浜に遊び魚鳥を捕(とら)う。其の獲る所のものを以って毎(つね)に倭王に献ぜり。王、甚だ之を喜びて疑うこと無し。

適々(たまたま)暁の霧、濛海(もうかい)たり。堤上が曰く。行く可しと。
美海が曰く。然らば即ち偕(とも)に行かんと。堤上が曰く。臣若(も)し行かば、恐らくは倭人覚(さと)りて之を追わん。ねがわくは臣留まりて其の追えるを止むる也と。美海が曰く。今、我(われ)と汝とは父兄の如し。何ぞ汝を棄てて独(ひと)り帰るを得んやと。

時に雞林の人、庚仇麗(こうきゅうれい)、倭国に在り。其の人を以て従わしめて之(これ)を送る。

堤上、美海の房に入る。明但に至りて、左右、入りて之を見んと欲す。堤上、出(い)でて之を止めて曰く。昨日、捕猟(ほりょう)に馳走して、病甚(はなはだ)しく、未だ起ずと。日暮るるに及びて、左右之を恠(あや)しみて更に問う。対(こた)えて曰く。美海が行くこと已に久しと。左右、奔(はし)りて王に告ぐ。王、騎兵を使(し)て之を遂(お)わしむるも、及ばず。是に堤上を囚(とら)えて問いて曰く。汝、何ぞ窃(ひそ)かに汝の国の王子を遣(や)るかと。対えて曰く。臣は是れ雞林の臣たり。倭国の臣に非(あら)ず。今、吾が君の志を成(な)さしめんと欲するのみ。何ぞ敢えて君に言わんやと。

倭王、怒りて曰く。今、汝は已に我が臣為(た)り。而るに雞林の臣と言わば、即ち必ず五刑に具(そな)えん。

若し倭国の臣と言わば、必ず重禄を賞さんと。

対(こた)えて曰く。寧(むし)ろ雞林の犬豘(けんとん)と為りても、倭国の臣子とは為らず。

寧ろ雞林の箠楚(すいそ)を受けても、倭国の爵禄(しゃくろく)は受けずと。
王、怒りて、屠(と)に命じて堤上の脚下の皮を剥(は)ぎ、兼葭(けんか)を刈りて其の上を趨(はし)ら使(し)む。
(今、兼葭の上に血痕あり。俗に堤上の血と云えり。)

更に問いて曰く。汝は何(いづ)れの臣かと。雞林の臣なりと。又、熱鉄(ねつてつ)の上に立た使めて、何れの国の臣たるかを問う。曰く。雞林の臣なりと。倭王、屈(くつ)すべからざるを知りて、木島の中で焼き殺せり。

久しき後にも、夫人、其の慕(ぼ)に勝(た)えず、三娘子を率いて鵄述嶺(しじゅつれい)に上り、倭国を望み、痛哭して終わる。乃(すなわち)ち 鵄述神母と為りて、今も祠堂在(あ)り。

「三国史記倭人伝」 岩波文庫 P74−79


文章は分かりよい。
中国の18史略のように、声に出して読むには絶好の物語である。



  
Posted by kinnyuuronnsawa at 21:16

2010年05月17日

628  あの星を求めて

628  あの星を求めて   2010.5.17

ふとした動機から、「ラ・マンチャの男」の「見果てぬ夢」を翻訳してみた。このミュージカルは観ていないし、歌の翻訳など初めてだ。


The Impossible Dream from  MAN OF LA MANCHA

To dream the impossible dream
To fight the unbeatable foe
To bear with unbearable sorrow
To run where the brave dare not go
見果てぬ夢を見て
負かすことのできない敵と戦い
ひどい悲しみに耐え
勇ましい奴も避けるところへ行く

To right the unrightable wrong
To love pure and chaste from afar
To try when your arms are too weary
To reach the unreachable star
どうしようもない悪を懲らしめ
清純なものを、遠くから見守り
いくら腕が疲れても、俺はやる
届きはしないが、あの星に向かう

This is my quest
To follow that star
No matter how hopeless
No matter how far
これが俺の冒険の旅
あの星を追いかけよう
いくら難しくても
どんなに遠くても

To fight for the right
Without question or pause
To be willing to march into Hell
For a heavenly cause
正義のために戦い
迷うことも、立ち止まることもなく
地獄にだって喜んで行く
それが運命なら

And I know if I`ll only be true
To this glorious quest
That my heart will lie peaceful and calm
When I`m laid to my rest
俺にはわかる
この輝かしい旅が
俺に安らぎをもたらすことを
旅が終り、俺が横たわるときに


午後7時半ごろ、2階の北側のドアを開けて、ふと西の空を見た。
美しいものを見た。下限の月と、大きく輝く一つの星である。
トルコの国旗の赤色を灰色に換え、横のものを縦にすれば、この星と月の組み合わせになる。

この2-3日、上記の翻訳で、星のことが念頭から離れなかったが、これで、美しく放念することができる。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 10:19

2010年05月16日

627  五月の詩

627  五月の詩  2010.5.16

    旅上      萩原朔太郎    1886−1942 

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめてはあたらしき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。

   詩集 純情小曲集  1925年出版に掲載されているが、この詩の製作はそれより13-4年前であることが、室生犀星の序文でわかる。
犀星の処女詩集は「純情詩集」である。二人の親交は深かった。

    汽車にのって      丸山薫  1899-1974  

汽車にのって   
あいるらんどのやうな田舎へ行かう
ひとびとが祭の日傘をくるくるまはし
陽が照りながら雨のふる
あいるらんどのやうな田舎へ行かう
車窓(まど)に映った自分の顔を道づれにして
湖水をわたり 隧道(とんねる)をくぐり
珍しい顔の少女や牛の歩いてゐる
あいるらんどのやうな田舎へ行かう

  詩集  物象詩集  1941年出版に掲載。
丸山薫の処女詩集は、1932年。早くから萩原朔太郎を耽読していた。
萩原の晩年、二人の親交は深かったようだ。

小田実が、「何でもみてやろう」で、アイルランドへ行っており、この詩を引用していることを、私は最近になって知ったばかりである。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 15:00

2010年05月05日

626 近頃、学習事情

626  近頃、学習事情  2010.5.5

1)湯島聖堂での漢文受講が、4月から2年目に入った。昨年度は、「論語素読」と「孫子を読む」の2科目を聴いた。今年度は、「論語素読」の後半と、「白楽天の詩と生涯」に通っている。論語は、年、6070円、白楽天は18200円で各90分×10回。孫子は、もっと原文を朗読して解釈してほしかった。いまの白楽天は、進行が遅すぎる。論語は、回数を重ねるにつれて味わいが出てきた。

2)4月4日、湯島聖堂のあと、東京大学へ行ってみた。キャンバスは閑散としていた。おどろくほど清潔だ。小学生のコンサートをやる安田講堂を除いて、どの建物にも学外者は入れない。かつては、汚く、混沌としていたが、ここは日曜日でも多数の人がおり、多様な何らかのメッセージを発していた。いまは、新学期が始まったばかりなのに、この学校は眠っているとしか思えない。

3)そのあと、湯島天神へ寄った。人出は少ない。膨大な量の絵馬が本殿の裏にブラ下がっていた。この冬に祈願されたものだ。見ると、入学祈願の他に入学御礼も多い。それ以上に驚いたのは、就職祈願が少なくないことだ。そのお礼もある。天神様は学問の神様から、多角化したのだろうか。

4)テレビは、BSの教養物か、CSの映画か、旧TVのニュースか大リーグの中継をよく見る。BSは、平城京や日韓古代史など長いものを見ている。順序どおりでなくてもよい、いつ中断してもよい。何かしながらでもよい。便利な学習道具だ。旧TVも要らないチャンネルは、映らないように選択できるとよい。

5)昨年の今頃、PCが壊れて買い替えた。使いこなして役に立っている。CD、DVDなどを買ったり借りたりで、聴いたり見たりしている。歌舞伎やミュージカルもありがたい。むかしの人は、晴耕雨読と言ったが、いまは読書以外にも家の中で楽しめることは多い。

6)小田実の「何でも見てやろう」を古本屋で見つけた。
1961年の出版で、当時も読んではみたが、おもしろくなかった。22カ国、2年間の無銭旅行的放浪記だが、私は、当時、どの外国にも行っていなかった。
今回は、とても面白く、抱腹絶倒もしながら読んだ。

なんでも若いときに読めばよいというものでもない。
いまが最適のタイミングという、学習もあるものだと思う。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 20:11

2010年05月01日

625  さらば歌舞伎座

625  さらば歌舞伎座   2010.5.1

昨4月30日、歌舞伎座の閉場式が行われた。再開は2013年の春だという。
私と歌舞伎の、それほど多くない思い出を残しておく。

1)名古屋の御園座に連れて行ってもらった。明るい舞台に、豆腐屋の店が出ていたように思う。あとで父親が言っていたが、開演中でも、私は、客席の通路を走り回って、困ったそうだ。昭和16年頃だろうか。

2)高校1年の冬、御園座の1等席を、父が3枚買った。父は、「演劇界」という雑誌の、戦前のバックナンバーを何年分か保存していた。姉が断ったので両親と私が「三人吉三」の通しを観た。お嬢(梅幸)、お尚(松緑)、お坊(海老蔵)と、豪華な顔ぶれだった。初見で芝居の虜になった。

3)大学の4年間、御園座に通った。歌舞伎は分裂していた。菊五郎劇団、関西歌舞伎、前進座、それぞれ別に打っていたから、新国劇も含めると、年に6-7回は名古屋にも来る。ほとんど全部行った。立ち見ばかりだ。

4)入社して2年間、証券アナリストとしての担当範囲に、映画、演劇の会社があった。映画5社がメインだが、興業系の各社も入っていた。新橋演舞場も歌舞伎座も東証の上場会社だった。取材に行くが、何も変わったことはない、いつも、定員は同じで満席で、業績の変化はない。歌舞伎座の本社の人員は5人ぐらいだった。取材が終わると、立ち見をして行きませんかと、誘ってくれる。それを期待して、よく取材に行ったものだ。

5)当時、外国人のために、役員から切符の入手を頼まれたことがある。なんのことはない、通常の窓口で手に入った。父から頼まれた団十郎の襲名興行もそうだった。インターネットがないと情報の空白があり、思わぬことが起こる。

6)その後、歌舞伎座で見たのは、10回ぐらいだろうか。いつでも行けると思うから、あまり行かないものだ。勿体ない。もっと行っておけばよかった。
最近は、DVDを借りてきて、ゆっくり観ている。日本語なのに、セリフや唄がよくわからないことに気がつく。何たることだ。謡曲とおなじように、台本を読んだうえで、歌舞伎は鑑賞するものになってしまった。


7)4月12日、最後の舞台を観た。寒いなかを1時間半、行列に加わり、「連獅子」を観た。最上階の立ち見だから、花道は見えない。舞台の大きさと明るさには感動する。獅子が首を振ると、長い髪が大きく回る。髪の毛が、あたかも一本の棒のように垂直に立つ。
振り方の上手さは、勘太郎28歳、勘三郎54歳 七之助26歳、の順序だと評価した。
ゴルフの腕前も、この順序かなと、余計なことを思った。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 10:30