2010年01月30日

600  トヨタの欠陥車

600 トヨタの欠陥車   10.1.30

最近の新聞をみて、こころが痛む。
あり得ないと思っていたことが起こっている。わが愛する、トヨタのことだ。

1/27 朝日夕刊 一面トップ
トヨタ、米での販売中止
230万台リコール対象の8機種。

1/28 日経夕刊 一面 中央 
トヨタ 109万台追加改修
米、フロアマット問題 新たに5車種

1/29 朝日朝刊 1面 中段
トヨタ 中国でもリコール

1/29 朝日朝刊 13面 トップ
トヨタ リコール800万台 
北米、レンタル停止も

1/30 朝日夕刊 1面 左
欧州で最大180万台
07年に米国で苦情

どこまで広がるのか、トヨタの欠陥車問題である。こういうことを起こす会社だとは、思っていなかった。それは、世界中の多くの人の思いでもあろう。

1960年代の後半から、ラルフ・ネーダーが活躍し、GMをはじめ、ビッグ3は、消費者運動に揺さぶられた。最初は、事故をおこす欠陥車、のちに公害問題が大きくなり、やがて、マスキー法ができ、排ガス規制が本格化した。

{1969年6月1日、朝日新聞は「日本の自動車――欠陥なぜ隠す――日産・トヨタを米紙が批判」と報道した。NYタイムズが「アメリカで日本およびヨーロッパの自動車がリコール問題を起こしても、メーカーはそれを公表せず独自の方法で欠陥車を回収・修理している」と批判した記事を受けたもので、具体的な事例として日産のブルーバードのガソリンもれとトヨタのコロナのブレーキ故障を掲げた。この記事は国内で反響をよび、いわゆる欠陥車問題に発展した。}

―― 「創造限りなく、トヨタ自動車50年史 p524」から引用

当時、ただちに、取材に行った。トヨタ自販へ、まず行った。
率直に、懇切丁寧に、いま分かっていることを説明してくれた。
そのころIRという言葉はなかったが、トヨタ自販の広報は抜群であった。

広報の若い人が、玄関まで、送ってくれながらこう言った。「自分はこの会社に入って、この会社を信じて、誇りに思っている。こんど、このような欠陥商品が発生したことが信じられない。ショックを受けている。どうか、この機会に改善してほしい。それができると信じている。」
率直な、この言葉に、わたしは救われた。トヨタ車の再建を信じた。

そのあとで、挙母(コロモ)のトヨタ自工を回った。それほど印象にのこる情報を得た記憶はないが、「社史」には、次のような記述が残っている。

6月6日 運輸省はトヨタ・日産から実情聴取、業界各社に欠陥車の総点検指示。
6月11日 業界各社、運輸省に対策車の詳細とその回収対策を届け出。
6月12日 リコール車の新聞広告を実施。
6月17日 自工、自販 合同のリコール特別委員会発足。

トヨタ自工を後にして、刈谷の豊田自動織機へ行った。
そこで、トヨタ自工の石田退三会長にお会いするためだ。

こう言われた。
「欠陥商品が出たとは、どうしても信じられない。だが、出たのは間違いない。
工場を止めてでも、改善しなければならない。
工場を止めたら、運動会をやればよい。」
「ここにも、アメリカの顧客から届いた手紙が沢山ある。
トヨタのクルマを買って良かったという、感謝の手紙だ。」
「こういう消費者がおられるということを、はげみにしたい。」

このとき、トヨタは、まだ若かった。
若い社員から、会長まで、表現は別だが、謙虚であった。
事態の改善の意気込みが、強烈であった。

今回も、そうであってほしい。グローバル化して、巨大になったから困難ではあろうけれども、ぜひ、そうあってほしい。

一番大切なことは、社会への広報、情報開示、IR、謙虚な、お詫びの姿勢と行動であろう 
  

Posted by kinnyuuronnsawa at 20:44

2010年01月28日

599  国債の利払い

599 国債の利払い  10.1.28

政権が代わってから、財務省のデイスクロも一新された。
よし、わるし、である。
いま、予算に関する発表がWEBに出ている。1000ページである。
これは必要ではあるまい。無駄であり、かえって不親切である。

国債発行残高が、21年度末に600兆円を突破することになった。
普通国債発行残高    財務省
19年度末 実績   541兆円程度   01年度末 約 161兆円   
20年度末 実績   546兆円程度
21年度末 見込   592兆円程度   11年度末 約 332兆円
昨12月8日修正   601兆円程度
国債発行残高が増えれば、毎年の利払いが増える。
だが、これまでは、そうではなかった。金利低下のおかげである。

なお、国債と云う場合、上記の普通国債のほかに、財政投融資特別会計国債、交付国債、出資・搬出国債、国鉄清算事業団債券等承継国債が含まれる。
20年度末で、残高は、すでに約680兆円である。

普通国債の年間利払い額は、13年度以降は10兆円を割ってきた。
低い利率で、新規国債を発行できたからである。
しかし、19年度から、利払い額が増加してきた。
22年度は、10兆円にちかづく。
普通国債残高       利率加重平均  一般会計利払費
12年度  367.6 兆円     2.67 %   10.0 兆円
13    392.4        2.30     9.4
14    421.1        1.97     8.6
15    457.0        1.72     7.8
16    499.0        1.54     7.3
17    526.9        1.42     7.0
18    531.7        1.43     7.0
19    541.5        1.41     7.4
20    545.9        1.40     7.6
21    600         ――     8.4
22    637         ――     9.8  
約10兆円の国債利息を誰が受け取っているのか。
国債保有の内訳は、日銀の統計によれば、かくのごときである。H20年12月末。

銀行等41,2%、生損保等19.1%、公的年金11.7%、日本銀行8.3%、海外6.8%、家計5.2%、
年金基金3.8%、その他2.4%、財政融資資金1.0%、一般政府0.4%。

この比率で、利払いを受け取っていると、仮定すると、年間約10兆円の国債利子のうち4兆円以上は銀行が受け取ることになる。投資効率がよいか悪いかは、別の尺度だ。

おそらく、5年後には、利払い額は、いまの2倍、年間20兆円になるだろう。
国債発行残高の増加と、金利の上昇によって、である。

年間20兆円の利払い、これは、金融・証券界では、大きなビジネス・チャンスである。
いまから、新商品の開発を考えていたら、よかろうと思う。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 19:27

2010年01月24日

598 日本とJALの再建

598 日本とJALの再建   10.1.24

このところ、古いことばかり書いていたが、「金融論茶話」の本来を忘れていたわけではない。書くべきことは、たまっている。
1月21日の夕刊に、たとえば朝日新聞だが、「日中GDP差 縮小」「09年、日本2位か」と、大きな見出しがある。
中国が、21日、2009年のGDP成長率が、実質8.7%だと発表した。名目GDP総額は、約4兆9000億ドルとなる。

日本のデータは、2月中旬に発表される予定と、新聞は書いている。
中国のGDP総額が、いずれ日本を抜くことには驚かない。
まえから不思議に思っていることは、中国のGDP統計が、日本より1カ月ちかく前に発表されることだ。なぜだろう。
日本は、それを疑い、実情がわかったら、恥じるべきである。

1月20日、日本航空の会社更生法申請が、大々的に報ぜられた。
のちのために、記録を残しておきたい。
1月20日の日経朝刊の一面記事による。

日航再建計画の骨子
債務超過 今期末8700億円
つなぎ融資枠6000億円
支援機構が3000億円出資
一般商取引債権は全額出資
債権カット7300億円
人員1万5600人削減
路線数は12年度198に、 09年度は229
11年度目めど営業黒字予想
3年めどに事業再生機構は保有株売却
 株式は上場廃止

私は、はじめからANAとの関係が気になっていた。
1月20日、前原国交相が、「国際線2社体制が成り立つかどうか、3年以内に見極めて決断する必要がある」と述べた。
おそまきながら、1月22日の朝日新聞は、{「国際線2社」に異論}の見出しでフオローしている。

今頃おそすぎる。それを政府は最初に決めるべきだった。
いまとなっては、あいまいなままで、海外に対して確たるメッセージを発することなく、日本の空運業は、苛烈な国際競争に対処するしかないのだ。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 20:25

2010年01月22日

597  青銅器の前に

597  青銅器の前に  10.1.22

論語は、孔子が話したことを、弟子たちが記録したものだ。
孔子は、BC 479年に亡くなった。この前後に、春秋時代が終わり、戦国時代が始まる。
孫子は、春秋時代から戦国時代への過渡期に生きた人である。

歴史は面白い。「十八史略」は「史記」から「宋史」まで18の史書を要約したものだ。
最初は記述が少ない。当然である。
伝説・神話の時代である「三皇五帝」は、短いし、文章が単純だから、高校の漢文でも最初に朗読した。
その後、長い年月の後に、「夏」王朝が起こり、桀王で終わる。
次の「殷」は紂王が、周に倒されて春秋時代に移る。
このころから、記録が豊富になり、「十八史略」の文章も多少は長くなる。

私は、春秋時代、や その前の「夏」「殷」が本当に存在したのか疑っていたことがある。
日本の「古事記」以上に、途方もない作り話だと思っていた。
今は、日本でも発掘によって「日本書記」の記述」が裏付けられたことが多い。
それに関連して、「古事記」の記述も、信憑性が出てきた部分がある。

中国でもそうである。
西安の兵馬俑、始皇帝の墓を始め、もっと古い時代のものも、近年の発掘によって明らかになったことが多い。
文書が残っていなくても、地下の中に雄弁な記録が残っていたのだ。
殷、周 時代の青銅器の発掘も、その一端となった。
すごいことである。
古代人のすごさと、現代人のすごさである。

1月17日 上野の国立博物館へ行った。
東洋館は修理中だったが、表慶館に移されており、参観できた。
ここでも、坂本コレクションの主、1代にして築き上げた坂本五郎氏の収集品が、坂本キク氏の名前で多数、寄贈されている。

今日の収穫は別にあった。「国宝 土偶展」が開かれていた。
それは、土で作った人形だが、その顔、かたちのユニークなること、現代の芸術家でも太刀打ちできまい。
出品されていたのは、67点、縄文時代早期、BC7000−4000年、から縄文時代晩期BC1000―400年にわたるものである。

青銅器より古い歴史の証拠があった。

そういうことに感動しているから、経済・金融を書いているヒマがないのだ。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 20:45

2010年01月19日

596 青銅器のこと

596 青銅器のこと  10.1.19

12月31日、奈良公園へ行った。強風が吹きまくり寒い日だった。東大寺の
3月堂だけ入ったが、あとは中止して奈良国立博物館へ寄った。
そこでは、坂本コレクションだけ見てきた。中国古代の青銅器である。

読めない漢字があるし、私のPCでは書けないのが残念である。
42点のうち、読めて書けたのは、次の5種類である。
爵シャク、3点、觚コ、3点、尊ソン、3点、壺 コ 4点、鼎テイ 5点。
制作されたのは、商=(殷)、商末周初、西周、春秋、戦国時代である。

私は、美術館へ行っても青銅器の陳列は素通りしてきた。ゆっくり、足を止めたのは、昨年夏の大原美術館ぐらいである。

1月9日、根津美術館へ行った。青銅器のコレクションだけ見てきた。2度見た後、売店で「殷周の青銅器」を買ってロビーで読み、3回目を見た。
28点は、以下の通り。殷=(商)、西周時代のほか、春秋時代2点、戦国時代1点がある。
盉カ、4点、カ、1点、拼ホウ 1点、尊ソン 6点、、ライ 3点、ユウ 2点、
シャク 1点、觚コ1点、ホウ 1点、イ 1点、壺コ 3点、簋キ 1点、
鑑カン 2点、ハク 1点。
 
テキストにより、青銅器を理解した。
1)神を饗応する器である。国家の形成によって制作が盛んになった。
2)食器、酒器、水器、楽器など用途により形が違う。40種類もある。
3)石器と違って、青銅器の材料は溶かして何度でも使えるが、鋳型は一度しか使えない。だから全く同じものはできない。
4)様々な装飾文様が施されている。だから美術品である。
5)文字が刻まれていることがある。解読により、歴史がわかる。

根津コレクションの圧巻は、「侯家荘出土青銅器」である。侯家荘は、中国河南省安陽市にあり、殷墟遺跡の中にある。そこは1920年代の後半、科学的発掘が行われて、大小多数の墓が発見された。それに先だって、私掘も行われており、青銅彛(イ)器6点が根津コレクションに入った。それらは、カ、3点、カ、1点、拼ホウ 1点、尊ソン1点 である。いずれも大型であり、トウテツ文という人間の顔をし、一対の角を付けた鬼神が蓋に彫刻されている。四方どこから眺めても、いつまでも飽きることはない。

BC 2144 夏はじまる
BC 1711  殷はじまる
BC 1000 前10世紀頃、東日本に亀ヶ岡土器が西日本に凸帯文土器が流行する。
BC 1100 前11世紀頃、周文王、豊邑を都とす
BC 1027 周の武王、殷の紂王を討ち、殷滅び、西周始まる
一説には、1066年 
BC 770  東周はじまる
BC 722 春秋の記述はじまる
BC 481 春秋の記述終わる
BC 479 孔子没
BC 475 戦国時代の始まり
    一説には、BC 403年
AD 90  史記 完成


参考文献

世界史年表  岩波書店
司馬遷 史記 徳間書店
十八史略新釈 弘道館
殷周の青銅器 根津美術館
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 13:17

2010年01月15日

595  二つの大寺

595 二つの大寺  10.1.15

斑鳩のあと、バスで薬師寺へ行った。
東塔は解体修理のため覆われていた。
いたるところにある、歌碑や句碑は目ざわりだが、ここにある佐々木信綱のは悪くない。ただ、今回は見そこなった。 
  ゆく秋の大和の国の薬師寺の、塔の上なる一ひらの雲 佐々木信綱

薬師寺は大寺である。塔は三重だが、高さは充分である。
金堂、講堂など、大きな建物に安置してある仏像は、みな巨大で、採光もよいから参観しやすい。近年、それが、とくに改善されたように思う。
薬師寺は、とりわけ、見せる気持ちが行き届いている。

私は、高田好胤師により救われた。
と言っても、言葉を交わしたのは、羽田で降りてトイレの隣同志で、用を足しただけの出会いである。

年末を間近にして、寺の若い人たちも飾り付けなどで働いている。
向こうから、あいさつをしてくれる。尋ねると丁寧に答えてくれる。

平山郁夫さんの、絵のある「玄奘三蔵院伽藍」は、大きな広場を前にした、大きな建物である。残念ながら、今は拝観できない。
このなかに自身の絵画を納められたこと、歴史に残る。偉大なことである。

その近くの唐招提寺へ行った。大修理は終わっていた。
この大寺には、いまも巨木が多い。
  おほてらのまろき/はしらのつきかげを
    つちにふみつつ/ものをこそおもへ
会津八一の歌碑は、すぐ見つかった。

ここも大寺である。修復が終わっていた。
金堂には、薬師如来がある、何よりあの千手観音がある。
講堂には、弥勒如来、持国・増長、二天がある
新設された新宝蔵も素晴らしい。大修理が終わると、大寺は甦る。

だが、この寺は、建物のほかに大きな樹木が多い。
今は入れないが、東山魁夷先生の絵がある御影堂や、鑑真和尚の墓は、林の中にある。大きな樹木林と建物の調和が、薬師寺とも法隆寺とも違う。
復活して良かった。よいときに再会できた。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 20:29

2010年01月12日

594 法隆寺にて

594 法隆寺にて  10.1.12

12月30日は、午前中は斑鳩、午後は西の京と決めていた。
10時20分、法隆寺の南大門に入る。中宮寺、法輪寺、法起寺と、いつものように歩き回るのだ。

中門の中の、法隆寺の境内には、大きな樹はない。台風による倒壊、建物の破損を避けて、切って小さくされている。それだけに、五重塔など建物の大きさが目立つ。法隆寺には国宝・重文になっている伽藍が55棟ある、650体の国宝・重文の仏像、彫刻がある。それらが集中しているのは、廻廊の中だ。

五重塔の中の釈迦涅槃図、大講堂の薬師三尊像、を見ると、今年も法隆寺へ来たなという気持ちになる。
金堂は釈迦三尊像をはじめとして、国宝・重文の宝庫だ。ここに匹敵するのは東大寺の三月堂である。
この金堂の中に照明が入っていた。昨年からという。それまでは暗くて、よく見えなかった。火災による壁画の焼失で、電気も禁止していたが、安全に配慮して、見せているという。だから焼け残った壁画もはっきりと観察できる。

大宝蔵院の中は、百済観音を筆頭に見るべきものが多すぎる。
ここだけで大博物館である。
夢殿は救世観音の御開帳は、年2回に限られているが、行信僧都、道詮僧都の生けるがごとき塑像がある。

法隆寺は素晴らしい。いくら来ても飽きることはない。建物の中も外もである。

中宮寺で、しばし正座したあと、法輪寺、法起寺へ行く。
いつも、そうであるように、薄田泣菫の「ああ大和にし、あらましかば」を朗唱しながら歩く。
いまは神無月ではないし、この辺りは住宅地や自動車道が開けて、かつての面影はないが、かまわずに朗唱して歩く。

毎年、いまごろ来て今年、気がついたことがある。
韓国、中国の人たちを殆ど見かけない。
代わりに、日本の家族連れが随分多くなっている。
至るところに、青い半纏を着た寺の人たちがいて、説明や案内をしてくれる。

ただ、クルマには悩まされる。
バス停で降りて、車道を横切るのに、長々と信号待ちをさせられる。
クルマの排ガスが、法隆寺にどう影響するかは、わからない。
わかった時は、手おくれであろう。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 17:17

2010年01月10日

593 三ツ鳥居のこと

593  三ツ鳥居のこと  10.1.10

12月29日、「山の辺の道」は8時20分、大和川の「仏教伝来の地」から歩き始めた。
この道で、いちばん好きなところは、檜原神社である。
檜原神社は、第10代、崇神天皇のとき、娘の豊鋤入姫命が天照大御神を祀ったのが最初で、大御神が伊勢へ移ったあとも、神蹟として重視されてきた。
御神体は天照大御神ほか二神で、大神神社の摂社である。
だが、ここの御神体は三輪山で、拝殿もない。

境内に入るには独特な鳥居をくぐる。
縦の柱が2本だけ、横木はなくて太い藁束の注連縄が渡してある。
この鳥居から西への展望は素晴らしい。
二上山を正面の右に見て、その下に奈良盆地の人々の営みが、広がっている。
境内の中にある建物は、小さな社務所だけだ。

少し歩くと、三ツ鳥居の前に出る。
この三ツ鳥居は4本の柱の間に格子が張られているが、鳥居の脇から山裾の聖地を拝観できる。砂を敷き詰めた静かな空間であり、ここに立つと神々が居られるような気持ちになる。
10年ほど前は、ここに松、杉などの大木があったが、いまの樹木は若い。
三ツ鳥居は、毎年ここで見た。今回も勿論だ。

檜原神社の手前に大神(オオミワ)神社がある。崇神天皇が建てさせた。
御祭神は、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)で、世に大国主神=大黒様で知られている。配祀として、大己貴神(オオナムチノカミ)、少彦名神(スクナヒコナノカミ)が祭られている。
これらの神様は本殿には居ない。三輪山が御神体である。
本殿はないが、豪壮な拝殿がある。拝殿と山の禁足地(神体山のうち特に神聖な場所)とを区切るところ、つまり拝殿の奥正面に「三ツ鳥居」が建っている。「三ツ鳥居」は、拝殿の前からは見えない。撮影禁止だから、写真は出回っていない。

ここの三ツ鳥居を一度拝観したいと思っていた。境内を歩いている白衣の若い神官に聞いてみた。あっさりと、「社務所で聞いてください、できますよ」と言われた。拝殿の奥へ案内された。三ツ鳥居は、4本の柱の間に「瑞垣(ミズガキ)」が設けられ、木彫りの欄間がはめこまれている。鳥居、瑞垣とも重要文化財だ。
鳥居というイメージとは程遠い芸術品である。そのときもらった、神社が発行している「三輪明神縁起」には、「三ツ鳥居」のカラー写真が出ている。
おおみそかには、3本の松明が拝殿の奥を走るのだという。

檜原神社と大神神社、二つの三ツ鳥居は、全く対照的だった。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 12:51

2010年01月09日

592  飛鳥寺での冥想

592 飛鳥寺での冥想  10.1.9

わからなくてもよい。
むしろ、謎のままが、良いと思うことは多い。
飛鳥には、それが多い。
私には飛鳥大佛との対面が、至福の時である。

ここで、正座して、何十分も座っているのは、何回目だろうか。
この11年で、年末に11回は来た。その前も10回ぐらいは来た。
一番初めの時から、どの仏像よりも感銘した。
そのとき、はじめて、仏像の前で、長いあいだ座っていた。
もちろん、そんな経験は、それまでに無かった。

今回も、正座して凝視していた。こんな仏像との拝観は、他にはない。
ここでは、本尊と同じ平面で対峙ができる。
触れるほどに接近して、拝むことができる。数年前、この前に座ることを目標に、正座の練習をした。いまは、1時間でも、何ともない。

飛鳥大佛は、満身創痍である。
残っているのが奇跡だ。何度も火災や破壊に会い、修復された仏像だ。
だから国宝にはならなかったと、この寺で聞いた。

顔の主要部分は残っている。
眼、鼻、眉、唇、みな大きい。
全身は黒光りで輝いている。
だが、修復の跡は醜くはない。むしろ威厳を加えている。
光の加減かどうか知らないが、顔は正面へ、ではなく、やや右を向いておられるように見える。

若い頃は、鞍作りの止利の出自、飛鳥寺の規模、法隆寺との比較、政治的な位置づけなどに 興味があった。
日本最古の寺の一つのようで、発掘すれば、大伽藍の跡が再現できるだろう。

だが、私には、このままでいい。
この鄙びた小さな本堂で、対面できる飛鳥大佛というだけで、あとは何も知らなくてもよい。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 21:03

2010年01月08日

591 石舞台にて思う

591  石舞台にて思う    10.1.8

飛鳥は、12月28日 午前11時からレンタサイクルで回った。
東京発6時50分の「のぞみ」で来ている。
近年、発掘が進んで見どころが増えた。
「伝飛鳥板ブキノ宮跡」「水落遺跡」も復元されて、周辺も整備された。
「甘樫丘」の上も下も一変した。

飛鳥には、不思議な石造物が多い。亀形石造物、酒船石、二面石、亀石、鬼の雪陰、鬼の俎、猿石などに驚かされる。

これらにも増して、私は石舞台が好きである。
外から見ると、四方八方、どちらから見ても異なる景観である。自然石を積み上げたから、こうなる。室内に入ると巨石の大きさが実感できる。
私は、24個は数えてみた。入口の1個と屋根の2個が特に巨大だ。
拝観券に書いてある説明によると、玄室(石室の主要部分)の長さ7.8m、幅3.4m、高さ4.8m、大小30数個の花崗岩の総重量3,300t。天井に使われている石の重さは、北側が64t、南側が77t。

蘇我馬子の墓というのが定説である。石舞台の近くで池の跡や大きな建物の跡が見つかった。甘樫丘の下に、武器庫や大邸宅の跡も発掘された。
不思議である。その強大な蘇我氏が、馬子の孫の入鹿が、645年の「乙巳の変」で、あっさり殺害され、入鹿の父、蝦夷も自害して、蘇我氏が滅んだことが、どうにも分からない。

蘇我氏は、これまで悪役とされてきた。山背大兄王を斑鳩宮に襲って自決せしめた。馬子、蝦夷、入鹿、三代に渡って、後の平氏以上に栄華を極め、専横のかぎりを尽くした、と評判が悪い。日本書紀の記述がそうだが、それを元にした、「二千五百年史」竹越与三郎、「物語日本史」平泉澄、では、蘇我氏は痛罵されている。

私は、蘇我氏の功績も大きいと思っている。いち早く仏教を受け入れた。蘇我氏が倒されたあと即位した孝徳天皇は、大化改新の実行者だが、仏教の重視を指示した。「欽明天皇に百済の聖明王が仏法を伝えたとき、蘇我稲目ひとりが受け入れた。蘇我馬子は父の遺法を尊び仏の教を信じた。馬子は天皇のために丈六の仏像を造った。」と蘇我氏の名前を出して、寺院の援護を宣言した。日本書記

ほかにも、朝鮮半島との交流にも力があったのだろう。

石舞台を眺めながら、今年は、蘇我氏の再発見という視線で、歴史を考えてみたいと思った。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 13:02