2009年02月28日

515  リセットの効用

515   リセットの効用

PCを買い代えた。今度は、おどろくほど順調に切り替えができた。
だけど、失われたものがある。
私が、以前のPCに残した膨大な情報である。

たとえばエクセルに打ち込んだ、経済・金融データ。
これは90年代後半からの10数年、大学の講義に使うため、収集して整理したものだ。
大学、大学院の授業の毎回の配布資料と、自分の手元資料を、作成して保存していた。膨大な量である。
いちおう、フロッピーデイスクに取ってはある。だが、それが整理されてはいないから、探すのは困難である。

もう授業はやらないから、探す必要はない。

あとは、宛名ソフトで作成した千名近い住所録やメイルアドレス。
これらは全部消えた。

このkinnyuuronnsawaは、CDとフロッピーデイスクに全部バックアップしてあるつもりである。でも、途中から目次ができていないので、探すのは大仕事である。

パソコンは、大したものだ。あるとき買いかえれば、記録は全部なくなるのだ。

人間の脳も、そうありたいと思う。
年をとると、何かと古いことを思いだしてしまう。
これは、まえにもあったぞ、というわけで、新鮮な驚きがない。

寝ながら、夢をよく見る。
たいていは、ろくな夢ではない。
そうゆうのは、全部忘れてしまえば、気楽であろう。

わたしは、車を運転していても、考え事をして我を忘れることがある。
青信号でも停まっていて、クラクションを鳴らされる。

何かを見たり聞いたりすると、どんどん連想が縦に横に広がってこんがらかってくる。そういうとき、過去の記憶が全部なくなっていたらよいな、と思うことがある。

若い人の良さは、「新鮮な驚き」があることである。
年寄りは、感動することが少なくなる。

パソコンのように、ある日、スイッチを切ったら全ての記録が消えてしまうというのは、実にすばらしい。


  

Posted by kinnyuuronnsawa at 21:49

2009年02月22日

514  加藤周一さん

514  加藤周一さん   09.2.21


昨年、12月に亡くなった加藤周一さんのお別れ会が、昨日、開かれたという。
この人の書いたものを、もっと早く読んでおけばよかったと後悔している。
このブログに書いたものを、再録する。

315    手だれの書き手        06.6.2

朝日新聞に「夕陽妄語、せきようもうご」という5段抜きの連載ものがある。
加藤周一という有名な人が書いている。わたしは読んでいるが、あまり熱心ではなかった。
コラムにしては長すぎる。はじまったのは1984年7月だが、よくも長い年月こんな大きな紙面を一人の書き手に、まかせてきたものだと不思議に思っていた。
私は加藤周一という人の書いたものを、あまり読んだことがなかった。

今週になって「夕陽妄語」(92.1−94.6)と「羊の歌」を読んだ。岩波新書の「羊の歌」が発行されたのは1968年8月である。加藤周一は1919年生まれである。
通読しただけだが驚嘆した。
華麗なる精神史であり、偉大な頭脳はこうして形成されるのだと納得する。
連想するのは北杜夫が「楡家の人々」で描く斉藤家の三代である。
そういえば加藤周一も父親も、医者だった。

5月24日のは「藤田嗣治私見」という題であった。その内容と論述の技法には興味をもった。まず、周到な文章の設計がある。本歌取りのような引用がある。ひろい視野の連想がある。例をあげる。
[彼(藤田)の自画像は強い意志を以って自己を主張する人物のそれではない。
眉を横たえて千夫の指に対するのでなく、西洋とアジアの二つの文化の間で揺れる心を反映するのである。]
さらりと書いているが、これは魯迅の詩をふまえている。
「眉を横たえて冷ややかに対す千夫の指 / 首を俯して甘んじて為る孺子の牛」の対句が有名な「自嘲」と題した詩の全文を、私は魯迅の書でみた。75年秋、はじめて中国へ行ったとき、上海の魯迅旧居へ寄ったときだ。

藤田嗣治は [1920年代にエコール・ドウ・パリの一員として、スーチンやモデイリアーニやシャガールと共に高く評価された]と書いたあと、[リトアニア人は激しい油絵具の色彩で勝負する。イタリア人は彫刻的な形の洗練を追求し、ロシア人は民話の富な「イマージュ」を展開する。日本人は浮世絵の女の肌の「乳白色」と細筆による輪郭の線、「ぼかし」による面の起伏を工夫するだろう。] と述べる。4人の画家の名前を何故だしたのかを、こうして説明している。
17行も間隔をおいたことが心憎い。

3月29日、藤田の展覧会をやっていた竹橋の美術館へ行った。例によっておしかけている大群に辟易して、常設館に入った。そこにも藤田の戦争画は3点あり、「アッツ島の玉砕」もあった。リアルであり息をのむ惨状だ。

加藤は書いている。[藤田は確かに軍部に協力して書いたが、戦争を描いたのでなく、戦場の極端な悲惨さを、まさに迫真的に描き出したのである。そこから戦争についてどういう結論を導きだすのかは、画家の仕事ではないと考えていたのだろう]

藤田は戦争協力により日本画壇で批判された。
1949年にふたたびフランスに渡り、二度と帰らなかった。

[戦争画」というものはない。―― 「戦時中の絵」はある。しかしそれは草花の絵かもしれない] [「戦場の絵」はありうる] 加藤周一は言葉の使いかたの名人だ。戦争画、戦時中の絵、戦場の絵、と使いわけている。
私が注目するのは、[「戦時中の絵」はある。しかしそれは草花の絵かもしれない。]という1節である。

その通りなのだ。大木惇夫は軍国詩人として高名だったが、戦後は「失意の虹」だった。
(茶話 274−279回)
その彼が、戦時中「日本の花」という詩集を出した。「戦争のさなかにも花はあった。破壊された建物や、撃墜された飛行機の残骸の傍にも、花は無心に咲いていた。」に始まる前書きが素晴らしい。大木は戦時下のジャワに滞在し現地の花を観察するが、それ以上に日本の花への愛惜に駆られる。詩集「日本の花」は二夜にして41篇を得て1943年に出版された。

文章をよむということは、書かれたものを素直に受け取ることではない。
読んでいるうちに、赤線を引いたり、書き込んだり、こちらが連想、展開などをして道草をくってしまうものもある。
そういうのに出会うことが少なくなってきた。87才にして、コクのあるものを書き続けている加藤周一を、もっと愛読しようと私は思っている。


  
Posted by kinnyuuronnsawa at 11:35

2009年02月19日

513  百年に一度の新人を

513 百年に1度の新人を  09.2.19

昨年来、いやというほど使われている言葉で「100年に一度の」がある。

わたしは、これが嫌いである。もとは、前FRB議長のグリーンスパン氏が、米下院の公聴会で証言し、米国は「100年に一度の信用の津波」に見舞われていると、発言したことによる。1929年を意識するなら、100年ではない。
「100年に一度」は、もののたとえであり、日本には「ここで会ったが100年目」という言い回しがある。今回の危機のマグニチュードも、古今の統計を比較して言っているわけでは無かったが、ようやく多少のデータが出てきている。

日本経済新聞は2月14日の朝刊で、今2009年3月期の上場企業1569社のうち、赤字計上が466社になると予想した。全体の30%である。それでも、ITバブル崩壊の2002年3月期の赤字会社数、506社よりは少ない。

戦後の日本で、いちばん深刻な不況は、1950年、いわゆるドッジ・ライン不況であった。上場会社518社のうち、配当をしていたのは169社しかなかった。
  「兜町戦史」 榊田望 ダイヤモンド社 1995年

取引所再開の1949年5月16日、176.21円でスタートした株価指数は、翌1950年7月6日には、85.25円まで下落した。
「株式会社の世紀」小林和子 日本経済評論社、1995年


ドッジデフレ下では、大企業の人員整理とそれに抗議するストライキが続発した。トヨタが代表例だ。

当時と今と比べれば、いちばん違うのは、当時は敗戦後まだ5年、国も企業も家計も蓄積が無かった。今の不況は、世界的規模だから、当時より厳しいが、耐える力は当時より大きいと思う。

ところで、当時の大蔵大臣は誰あろう。あの池田勇人氏である。
48年12月に泉山三六氏が辞職したあと、大屋商工相が臨時に蔵相を務めたが、翌49年2月から、新人議員の池田氏を、吉田首相は抜擢した。
ドッジデフレの初めからドンゾコ、そして回復過程も、その後も、実に第3次吉田内閣まで、49年2月から52年9月まで大蔵大臣を務めた。

こういう新人が今もいるはずだと、わたしは思っている。
次の首相はいまから、千里の馬を探していてもらいたい。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 11:36

2009年02月18日

512  財務大臣の辞職

512  財務大臣の辞職    09.2.18

昨17日、中川昭一財務・金融相が辞任した。
「G-7後、もうろうとした意識で記者会見したことの責任をとるという。
薬のせいなのか、アルコールのせいなのか定かでない」 朝日新聞社説。

ただちに思い出したことがある。泉山三六 大蔵大臣の辞任である。

「酒ずきのかれは予算案のかかっている国会内で深酔いし、民主党婦人議員山下春江をだいて頬をよせ「君が好きだ、予算審議などどうでもよいさ」と、ささやいてキスをしようとしたとかで内外にセンセーションをまきおこした。―――― 仰天した外人記者たちは泉山のささやきを忠実に、I love you、it is more important to kiss you than to debate the budget と直訳して打電、電波は地球上をかけめぐってこの珍ニュースを世界の果てまでつたえた。泉山はこのあと国会内医療室にかつぎこまれ、水を飲まされたり注射をうたれたり、看護をうけてようやくしらふに帰ったとき「何を言ったか覚えていない」と語った。吉田もおどろいて蔵相のくびをきった。」 
「この自由党」 板垣進助 1952.9 理論社

これは、第2次吉田内閣のとき、1948年12月13日だった。
麻生総理は、このときの祖父のことを思っただろうか。 

私は、このブログの433回、2008年4月13日に「G-7の役割」を書いた。
2007年の秋以降、この種の国際会議の役割が重くなったと思ったので、2008年4月11日に終わったG-7での「金融安定化フオーラム」の報告書の目次を紹介した。

わたしのクロージングは、こうだった。
「ここで決まることは、各国の現行法と矛盾することもある。
G-7で合意するということは、法律の改正を覚悟するということだ。
こういう重要な会議に出るのだから、中央銀行の総裁だけでなく、日本の財務大臣も相当の人でなければ、つとまらない。
すくなくとも、他のG-7の出席者と英語でやりあえる人でなければならない。」 

日銀総裁の任期は5年、人選は慎重で適任者が選ばれている。
それに比べて、財務大臣の選任は軽い。
こんどは与謝野氏の3省兼務である。

私は、残念でたまらない。
財務大臣は、民間からも含めて、この危機のあいだ3-4年はつとめられる優れた人物をえらべないだろうか。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 09:59

2009年02月14日

511 My computer

511  My Computer 09.2.14

昨13日、午前中に新しいPCが届いた。
94年以来、自宅では4台目である。
最初の2台はコンパックのデスクトップ、あとはDELLのノートだ。
その前に東芝のワープロ(ルポ)を3台使った。

1月の月末、突如、PCに異常が発生した。これは、03年3月に購入したものだ。
トラブルは、こうである。全画面にピンクや青の斑点入りの雲がかかる。したがって、肝心の画面は読みにくい。それは、我慢しても反応が極端に遅い。

DELLのサポートセンターに電話したら、つめたい反応だった。ハードの故障であり、直らない、保障期間は過ぎている。パソコンは便利だが、よく壊れる。そうなると、パニックだ。わたしは、DELLに電話して、リアルサイトの存在を知った。秋葉原にあった。2月2日、そこで1時間以上、わたしの質問に詳しく答えてくれた人がいた。ほかの量販店では、ゆっくり聞くことはできない。
そこで納得して、約15万円を支払い契約した。壊れたDELLの半値である。世の中は進歩している。

セッテイングや接続は、意外にも順調だった。
だから、このコラムも書いている。
WORD,MAIL、INTERNET、PRINTER,などの接続は簡単だった。すぐに終わった。

このブログは、わたしのゼミ生の平出隆史君が設計してくれたものである。彼が残してくれた詳細なマニュアルがある。
それに頼る前に、彼が設定してくれたLIVEDOORのパスワードとIDナンバーを打ち込んだら、簡単に「金融論茶話」を復元することが出来た。


正岡子規に比べれば、私は恵まれている。
しばらく、駄文を書くのは続けたい。

いまは、午後1時、私の部屋は、摂氏20度である。
今年の冬は終わったようだ。

明治34年2月14日、子規は「墨汁一滴」で平賀元義を激賞している。

 ここにして紅葉を見つつ酒のめば昔の秋し思ほゆるかも

                   平賀元義
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 14:42

2009年02月13日

510  子規の連載コラム

510 子規の連載コラム  09.2.13

2月7日(土)、本郷3丁目で地下鉄下車、赤門、正門、農学部前など、昔の中山道(国道17号線)を通り、東大の中を横切っている言問通りを右折、しばらく歩いてJRを跨ぐ陸橋を渡って下へ降りたら、子規庵の前に出た。ここまでに1時間半歩いた。

はじめて子規庵に入った。戦災で焼けたが、1950年に再建された。
子規が座っていた机の前にすわり、庭を見た。糸瓜などが、枯れてぶらさがっている。

子規、最近 読んでいない。だから、そこにあった岩波文庫を6冊買った
「歌よみに与うる書」「子規歌集」「子規句集」「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」

「歌よみに与える書」、学生時代に読み「貫之は下手な歌よみにて「古今集」はくだらぬ集に有之候」という、既成観や権威への痛烈な挑戦に感服したが、私は、その頃は沢山の歌を読んでいなかった。いま読めば解る。すぐに「橘曙覧全歌集」も買った。

子規庵へ行ったので、あの部屋で寝ていたのだと、実感がある。
こうして、まとめて読んでみると、子規の強さに驚嘆する。

「歌よみに与ふる書」明治31年2月12日から3月4日、「日本」に10回連載
「墨汁一滴」明治34年1月16日から7月2日まで、新聞「日本」に164回連載、途中休んだのは4日だけ。
「病床六尺」明治35年5月5日から9月17日まで127回、「日本」、その2日後、死去
「仰臥漫録」明治34年9月2日から、明治35年7月29日まで。生前、公表せず

「墨汁一滴」「病床六尺」だけでも、合計291回の連載、ほとんど休みなしである。




ところで、私のブログは、今回を最後に中断しなければならない。
パソコンが壊れて、買い換えた。いま届いた。
これからセッテイングして、ブログの立ち上げをしなければならないが、果たしてうまくできるかどうか、不安である。

子規にくらべれば、なんと情け無いことである。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 11:20

2009年02月10日

509  大統領演説の構文

509  大統領演説の構文    09.2.10

OBAMA大統領の就任演説(米国時間 1月20日 正午)をすぐに読んだ。
The NewYork Times は、早くも1月20日のHPに全文を掲載していたからだ。
APPLAUSE(拍手による中断)が、15回あったことも分かる。

最後が盛り上がっている。
「So let us mark this day with remembrance of who we are and how far we have traveled.
In the year of America’s  birth、in the coldest of months、a small band of patriots huddled by dying campfires on the shores of an icy river.
The capital was abandoned. The enemy was advancing. The snow was stained with blood.
At the moment when the outcome of our nation ordered these words to be read to the people;
わたしは、ここで涙が出そうになった。

これにつづくcloshingも含めて、オバマ演説は歴史に残るだろう。

ここの10数行には、let us が 三度、 let it beが二度使われている。
オバマ大統領は、国民に ―――しようと 何度も呼びかけた。それが、メッセージだ。

ところで、米国の独立宣言と、ケネデイ大統領の就任演説には、共通の構造がある。
それは、演繹法でなく、帰納法の叙述である。

両方とも、結論のメッセージは明快である。
なぜ、そうであるかを、沢山の例示をあげている。

独立宣言では、英国王の非道に対する批判が痛烈だ。

「現在の英国王の治世の歴史は、度重なる不正と権利侵害の歴史であり、そのすべてが、これらの諸邦に対する絶対専制の確立を直接の目的としている。このことを例証するために、以下の事実をあえて公正に判断する世界の人々に向けて提示することにする。」

これからが、すごい。
国王は、という書き出しで、18ヶ条にわたって、ジョージ3世を、具体的に批判している。
原文では、The present King of Great Britainも、Heで、済まされている。

 
ケネデイ演説では、米国内外への誓いの言葉が、最初に列挙される。

例示する。
「われわれの幸福を願う国にせよ、われわれの不幸を願う国にせよ、あらゆる国に対して、われわれは自由の存続と成功を確保するためなら、いかなる代償も払い、いかなる重荷も負い、いかなる苦難にも立ち向かい、いかなる友人をも支持し、いかなる敵にも対抗することを知らしめようではないか」

ここで、「いかなる」がくりかえされる。
英文なら簡単である。Anyである。
Let every nation know, whether it wishes us well or, ill, that, we shall pay any price, bear any burden, meet any hardship、support any friends, oppose any foe to assume the survival and the success of liberty.

このあとに 誓うという言葉が何回も出てくる。We Pledgeだ。

そのあとは、Let us、だが、米国の敵対する諸国に対して、let both sides( 双方とも)、
と、4度、呼びかけている。

こうした、伏線の上に、あの有名なセリフがある。

今度の、オバマ演説は、独立宣言とケネデイ演説と、構文が似ている。

リンカーンが、引き合いにだされるが、リンカーン演説は違う。
有名なセリフを除けば、悪文である。短いが、わかりにくい。

余談だが、わたしは、ゲテイスバークの古戦場に、ニューヨークから車で行き、見て回ったことがある。百聞は一見に如かず、あそこには長い演説は無用だ。
いまでも、言葉は要らない。歴史を残している場所は雄弁である。

掲載が遅れたが、大統領の名演説は、具体的な事例があり、それを受けて、短い総括的セリフがある。

それは、大統領の実行宣言であり、国民への実行要望である。
 
引用文献 「米国の歴史と民主主義の基本文書」 U.S Embassy、Japan
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 21:44

2009年02月04日

508  哀悼、神崎倫一さん

508  哀悼、神崎倫一さん   09.2.4

今朝、2月4日、神崎倫一さんの訃報を知った。82才だった。
わたしは、1959年、野村證券に入社して調査部に配属された。同期生90数名のうち、今は俳人として活躍しておられる阿部至さんと二人だけだった。

そのころの調査部には、ほかの部や会社に転出している先輩が、よく遊びに来られた。
今年は、どんな奴が入ってきたか、わたしたち新人も品さだめされた。前調査部長の竹村幸一郎さんは、「お前の字は枡の中にチャント入っているのか」と叫ばれた。わたしは悪筆で、文字がやたらに大きかった。のちに野村の軍師として同期の田淵節也社長を支えた志茂明さんは、部長席でも空いていれば机の上に両足を投げ出し、本を読んでいた。

神崎さんは、わたしの入社した年に設立された東洋信託銀行に転出された。同じビルだったので、その後もよく遊びにこられた。

当時、月2回発行の「財界観測」という機関誌があった。創業以来つづいていた。新人も1-2月ごろ書かされる。先輩たちも読んでくれていて、いろいろ批評してくれる。
私は1月に百貨店業界を書いた。神崎さんは激賞してくれた。2月に映画業界を書いた。今度は出来が悪いと怒られた。神崎さんのスゴイところは、編集長に「新人を酷使するな、毎月書かせたら、ツブレテしまう」と抗議してくれたことだ。

その後も、最近にいたるまで、年に何回か御会いして、お互いの書いたものを批評したり、文学、映画、証券界、大学などについて話し合う、よき先輩であった。

神崎さん、当時の野村には珍しい特色があった。
一つはスポーツマンであった。
東大で陸上ホッケーをやっておられた。野村の運動会で1500m競争があり、1959年あたりまで5年連続優勝された。最後のときは30才台の後半である。ホッケーは、東大や上智大で、長い間、監督もつとめられておられた。
もう一つは、書かれたコラムや評論は、株式市場にたいして徹底的に弱気であり、警告を発しておられた。
これは、なかなか出来ないことである。

わたしが入社したときの調査部長は、前川誠一さん(まじめな経済学者)、次が木上兵衛さん(歴史の好きな読書家)、石川郁郎さん(歌人、俳人、文人)、証券会社の調査部ではあったが、豊かな教養の雰囲気にあふれていた。
そこに加わった、志茂明さん、神崎倫一さんなどの大先輩たち。

「野村證券調査部、若い頃、自分がそこに居ると思うだけで昂然と胸が高鳴った。もう一度人生がやりなおせるなら、あのときの、そこに入りたい。」
神崎さんは、あるところで書かれた。

わたしも同じ思いである。
さらば、野村證券調査部。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 15:02