2008年06月21日

452 いつも六月に動いた  

452  いつも6月に動いた     08.6.21

六月     井上靖         詩集「北国」より
「海の青が薄くなると、それだけ、空の青が濃くなってゆく。
街に青のスーツが目立ってくる。それに従って、山野の青が消えてゆくのだ。
六月 ―、移動する青の一族。その隊列を横切るために、私は旅に出なければならぬ。」

わたしも、六月に動いたことが多かった。

1945年6月10日、  「帰去来の辞」
疎開していた母の実家を引き上げ、父の実家に移った。
留守だったので、田園は荒れていたが、花菖蒲が待っていた。
国民学校3年生、1年間に4度目の転校だった。

1991年6月22日    父死す
NYから17日帰任していた。父の葬儀を終えたあと、グループ会社のトップ交代を知る。
弔電は両社長から頂いた。

1996年6月27日   会社を去る
夕方の株主総会で退任。最後の仕事は、午前中、法務省幹部への研修。

2007年6月18日   大学を去る
3月、多摩大学を辞任。この日、大学院同窓会事務所の開所式にて、感謝状をいただく。
大学、大学院での10年間が過ぎていた。
 
2008年6月17日   最後の役職を辞す
70才を過ぎたら、すべての役職を辞し、まったくの自由人になりたかった。
一度には辞められないもので、いま実現した。

わたしも、約50年の間に、いくつ名詞をつくったのであろうか、もらった枚数も膨大なものである。

致仕なりて、日経新聞人事欄
小さき活字をいとおしく見る    拙

じつに長い間、多くの人々に御世話になりました。
ありがとうございました。

このごろは、金融論や経済学から離れてきたが、このブログは続けます。
見ていてくれた皆さんに感謝いたします。
  

Posted by kinnyuuronnsawa at 16:06

2008年06月07日

451 消えた優良企業(3)

451  消えた優良企業 (3)   08.6.7

1982年のある日だったと思う、米国のジャーナリストを連れて我孫子へ行った。手嶋社長自身から工場を案内していただいた。統合の効果があらわれ業績は良くなっていた。
日立精機もNCマシンの売上げ比率が高まっていた。出荷先は大企業でなく中小企業が多かった。輸出も増えていた。我孫子の生産ラインにもNC化、無人化が進んでいた。

ただ、土地バブルは始まっていた。近くのスーパー大手から駐車場を買いたいという申し出があり、売って売却代金を預金すると金利だけで、全社の利益を上回るという。
このときは売却しなかったが、製造業の地盤沈下が目だってきていた。

米国のジャーナリストに、いま注目されている書物は何かと聞いたら、即座に「In Search of EXCELLENCE」だと答えた。これは、1983年7月、邦訳が出てベストセラーになった。米国大企業の経営革新が日本でも礼讃された。

やがて、バブルとバブルの破裂で、日本中が崩壊した。
日立精機は1993年3月期から赤字に転落し、1998年3月期に一度だけ回復したが、2001年3月期まで、赤字が続き、2002年8月19日、ついに民亊再生手続きを開始した。

森精機に営業譲渡され、日立精機の名前は消えた。1936年7月の創業であった。

日立精機の場合、やりきれない思いがある。

歴代の経営者が放漫経営をしてきたのではない。
新規事業を手がけて失敗したのではない。
不動産、金融資産の運用に失敗したのではない。

ただ、工作機械の事業のなかで、輸出に着目するのが遅かった。
NC、MCマシンに主力製品をシフトするのが遅れた。

豊かな財務内容は、長期の業績悪化に際して支えにはならない。
1976年3月期以降、2002年の倒産までに12回の赤字決算を記録した。

とりわけ、90年代の経営は悔やまれてならない。

いま日本の工作機械業界は、世界一の生産を維持し、繁栄をつづけている。
森精機、ヤマザキマザック、オークマ、ジェイテクトの4社が業界をリードしている。

いずれも、輸出に強く、名古屋に本社を置いている。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 13:56

450 消えた優良企業(2)

450  消えた優良企業 (2)   08.6.7

1973年10月、第1次石油ショックが起こった。原油価格は4倍に引上げられた。
その影響は深刻で、77年には通産省が構造不況業種を指定した。
砂糖、繊維、段ボール原紙、化学肥料、苛性ソーダ、塩ビ、平電炉、アルミ精錬、工作機械、造船、合板、海運の12業種である。

日立精機    売上高   経常利益
1974/3期   180.7億円  9.9億円
1975/3     178.5   4.0
1976/3     96.6    △ 22.3
1977/3     126.7   △ 23.9
1978/3     155.9   △ 12.8
1979/3     185.4   △ 10.1
1980/3     261.4     17.3
1981/3     337.4     39.8

日立精機も76年3月期から、赤字に転落。76年春、410名が希望退職。
78年1月、抜本的な打開策として、工場統合を発表した。

それは79年1月に実現した。
習志野工場を閉鎖して我孫子の本社工場に統合
跡地は58億円で売却、資産売却益54億円を80年3月期に計上、借入金50億円を返済
   従業員450名が習志野から我孫子へ配置転換

我孫子工場の増改築、組織の簡素化、生産ラインの自動化、自動部品倉庫の新設
平行して生産性向上運動推進、 VE活動、 QCサークル、4S活動
その結果、在庫圧縮、部品点数削減、財務内容の改善が実現し、80年3月期から黒字に転換した。統合は成功した。

78年10月  白土社長退任  出川社長就任

のちに社長に就任した手嶋さんは、日立精機の調査・企画畑で若い頃から活躍、工作機械の需要予測などの手法を築かれた。
森、山崎などに遅れて日立精機が輸出にのりだしたとき、米国市場を開拓した。

工場の統合にあたって、周到な計画をたて陣頭指揮をしたのは、そのころは専務であった手嶋さんであった。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 13:51

449  消えた優良企業(1)

449  消えた優良企業(1)     08.6.7

拙宅から歩いて20分ほどの場所に、N大学S学部の実籾校舎がある。
正門を入ると、スダジイの巨木が大きな笠のような枝をひろげている。近くにある習志野校舎におとらず、広くて大学らしい雰囲気がある。
ここは、1979年まで、日立精機の習志野工場であった。

1961年頃、日立精機は工作機械業界で圧倒的な優良会社だった。
全社平均の売上高税込利益率は20%、ドル箱のタレット旋盤に限れば40%だった。
それは当時の工作機械業界では珍しく、月産4-50台がコンベアで流して組み立てられていた。
フライス盤も量産していた。少機種、大量生産が高収益の源泉だった。

当時の市川社長にうかがったことがある。
「戦後、資金繰りに困って銀行へ融資の御願いに行った。支店長でもない若い人が出てきて、社屋に立っている赤旗を降ろして出直して来いと言った。争議中だった。借り入れは返したが、それ以降、絶対に銀行に頼らぬと誓った」

日立と名がついているが日立グループとは関係ない。証券アナリストとして、私が出入りした頃は、高収益で無借金、財務内容抜群の優良会社だった。業界は岩戸景気(1961年)の反動で、40年不況(1965年)では倒産が続出したが、日立精機は安泰だった。

1969年秋、私は、米国のシンシナテイ・ミリング、カーネー$トレッカー、サンドストランド社を訪問して論文を書いた。「米国3大シテムビルダーの経営戦略」というテーマで、米国工作機械大手のNCマシンへの取組みを紹介し、日本の業界への提言を意図したものだ。

それは、日立精機の経営企画に居られた、旧知の手嶋さんの眼にとまり、日立精機の白土社長に報告した。白土さんは、日本工作機械工業会の会長をしていたので、業界の役員会で各社の社長にその論文をもとに報告させていただいた。そのおり、のちに社長になる出川さんに、紹介や司会をしていただいた。「NC時代が来る。米国各社は対日進出も考えている。日本の業界は戦略を組み直すべきである」と主張した。1970年のことである。

当時、NCマシン(数値制御による加工)に積極的だったのは、カーネー$トレッカーと提携した東芝機械、ついで、国鉄大宮工場にモデルラインを納入した池貝鉄工であった。

業界のなかで日立精機は最も消極的だった。
フライス盤、タレット旋盤というドル箱があったからだ。
自動車向けの専用機(トランスフアーマシン)の売上げを増やしていたが、これは利益率が低かった。本社は我孫子で、神田駅の近くに小さな東京事務所があった。ケチケチ精機と言われた堅実な社風と手厚い内部留保が残っていた。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 13:39

2008年06月06日

448  公的資金による利益

448  公的資金による利益    08.6.6

6月4日の日経、朝刊によれば、「国が1998年から2003年にかけて大手銀行や地方銀行に資本注入した約12.3兆円の公的資金のうち、現在までに額面ベースで約8.8兆円を回収し、優先株などの値上がりで約1.3兆円の利益を得ていることが分かった。回収率は7割超となった。」
「国は今後も資本注入行から申請があれば、注入行の財務の健全性などに配慮した上で、回収を進める」「資本注入の対象行は34銀行だったが、再編で22行となった。」

公的資金の注入については、当時さまざまな議論があった。
そのなかで、回収ができなくなって税金が無駄になるというのもあったが、それは杞憂であった。
公的資金による株式投資は、結構よいパフオーマンスである。

公的資金による株式購入は、もうひとつある。
5月29日に発表になった日本銀行の2007年度の決算報告書から説明する。

日本銀行は金融機関が保有している株式を買取った。株式はリスクの大きな資産だから、自己資本の範囲内しか保有すべきではない、という指導方針を決めて買取ったもので、その額は2004年度末には2兆円に達した。
日本銀行は、2005年度から保有株式の売却を行っている。

金銭の信託(信託財産株式)の運用損益として、株式の売却益が表示されている。
2005年度   548億円
2006年度  2,433億円 
2007年度  3,130億円

そして、2007年度末現在、1兆4260億円の株式を保有し、この分について7,400億円余の評価益が発生している。

昭和40年の証券不況のときも、株式買上げ機関の共同証券、保有組合は、あとで大きな株式売却益をあげた。
公的資金を注入するときは、よほどの困難な市場環境であり、国はあらゆる手段を動員して事態を改善しなければならない。改善できれば公的資金は増えて戻ってくる。
この経験は、今後の金融危機に際し、なんらかの影響を残すであろう。
米国のサブプライム・ローン危機の処理にも、政策の選択肢を与えるであろう。

それが、よい結果になるか、悪い結果になるかは、私には解らない。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 17:03

2008年06月05日

447 メガバンクの国債

447    メガバンクの国債      08.6.5

5月29日には長期金利が1.805%にまで上昇した。

メガバンクへの影響を考えるために、決算短信により2008年3月期決算の国債保有額を見た。

満期保有目的の国債は、みずほFGで4899億円、三菱UFJ・FGで2兆4969億円ある。
それは償却原価法で評価しており、途中の時価変動に大きくさらされるものは、「その他有価証券で時価のあるもの」だけである。

その他有価証券で時価のあるもの  百万円

みずほFG 取得原価  B/S計上額  評価差額
株式   3,149,964  4,126,691   976,727 
国債  16,321,913  16,222,574  △99,339 
社債  1,161,650   1,162,118    468
外国債券 7,524,572  7,459,314  △65,258、

三菱UFJ・FG
国内株式 4,296,748  5,674,702   1,377,953
国債   15,366,668 15,343,602   △23,065  
社債   1,505,488  1,515,939    10,450
外国株式  97,079   192,234    95,154
外国債券 8,435,851  8,415,050   △20,800 

1) 両行とも、すでに2008年3月期で、国債の評価損がでている。しかし国債価格が大きく下落したのは、4月以降であり、今期の評価損は拡大すると予想される。

2) 両行とも株式の評価益がでている。とくに三菱UFJ・FGは、国内株式で1兆3779億円、外国株式で951億円の評価益がでており、国債および外国債券の評価損を消している。

3) 国債の保有額は両行とも、15-6兆円と巨額である。今期以降の決算の注目点である。

4) 個人にはできないが、銀行は短期市場から0.5%の金利で大量の資金調達ができる。
長期金利1.8%ならば、1.3%のスプレッドがある。
いろいろなビジネスチャンスがあるに違いない。
  
Posted by kinnyuuronnsawa at 14:59