381 また逢う日まで 07.9.24
年をとると感性が鈍くなる、喜怒哀楽の情が淡白になると言われるが、わたしの場合は違うようだ。このごろ、映画やテレビを見ていて涙が出ることが多い。
ケーブルTVで古い映画をやっているので、つい見てしまう。周平の「蝉」や「清左」は何回 見たかしれないが、いつも同じところで泣ける。脱線するが、「清左」で平松という剣の強い男が出てくる。わたしはこの男が好きだ。誰を連想するかというと、その容貌も役回りも、ヤンキースの守護神ピッチャー、リベラによく似ている。
昨日、23日午前10時から12時まで、「また逢う日まで」を見た。
わたしは随分たくさん映画を見てきたが、これは初めてである。監督は今井正で、岡田英次、久我美子の主演である。東宝で、1950年3月の封切り、その年の「キネ旬 ベスト10」で「羅生門」を抑えてトップだった。
最初のシーン、二人が地下鉄のホームで空襲を避難していて出会う場面で、「WATERLOO BRIDGE」を思い出した。それは1949年がRE MAKEで、最初は1931年の製作だから、「また逢う日までの」脚本を書いた水木洋子、八住利雄も知っているはずだ。
なんだ、焼きなおしかと鼻白みかけたが、くらべものにならないほど、このほうがよい。
おなじような、戦時中の悲劇だが、あの「哀愁」という邦名でヒットしたロンドンの物語より、静かに、うつくしく展開される。
主役の田島三郎(岡田英次)と小野蛍子(久我美子)の出会いから別れまで、つかの間であるが、明るくたのしげである。映画のなかで、二人は10回ちかく逢った。岡田は大学生、久我は生活のためにポスターを書いていた。
このとき久我美子は19才であった。この16年あと、京都の南禅寺の近くを歩いている久我美子をみかけたことがある。気高い品格は周りの人たちを圧倒していた。
この映画は、脇役がいい。戦時下、三郎にきびしい父(滝沢修)、兄、(河野秋武) 蛍子の母(杉村春子)たちは、ひたむきに時節にしたがって生きている。これらの肉親は、ほんとうは二人にやさしい。最後に、滝沢と杉村が残る。
不満なのは、動員を目前にしている5人の学生仲間の行動や会話が物足りない。ただ独り、芥川比呂志が父親ばりのニヒル、ダンデイ、で場のなかで存在感を見せていた。
岡田が、出征を二日前にして久我美子と語り合う。
帰ってきたら結婚しよう、小さな一間だけでよいから新居を持とう。
久我がいう、ステンレスの小さなフライパンが欲しい、それがあれば、どんな料理でも作ってあげる。久我のセリフに、恥ずかしながら嗚咽がでてしまった。
売れない絵描きである久我がいう、小さな部屋を、どんなにでもきれいに飾り立ててみせる、二人の部屋を今から書いておこう。
彼等は、それは、しなかった。時間が惜しかった。
雪のなかを明日の10時、出征前の最後の再開を約して別れてゆく。
それは、岡田の事情で実現しなかった。
その日、駅で10時に逢うことにして、長いあいだ待ちぼうけしていた久我美子の、空爆による死は、今井正の映画は想像させるだけである。
岡田英次の戦死は、出征前に久我美子が書いてあげた肖像画だけで示される。
戦地からの手紙を岡田の父、滝沢と、久我の母、杉村が聞く、これがラストシーンである。
見ていた2時間、かたときたりとも、眼を離せなかった。
ああ、「羅生門」がグランプリを取った日本映画の青春期。
だが、わたしはこの映画は、今はじめて見てよかったと思う。